人生

やっていきましょう

930日目

創作を演出する上で予め用意されたプロットをそのままセリフとして淡々と述べさせる時がある。アイデアに詰まっている時などにそれが顕著になるが、大抵こうした表現は面白くない。

面白い演出は、セリフにプロットを感じさせないものである。登場人物同士の会話、あるいは彼ら自身の考え、感情の動きなどから、自然と次の展開が導かれるような演出が望ましい。

セリフにプロットを感じさせないというのは、必ずしも表現がストーリー進行に直結していないということでもある。多くの優れた作品を見ると、セリフの中には脇道に逸れたものを多く含んでいる。何気ない会話、ふとした思いつき、これらの無駄とも思える要素を敢えて追加することで、次に起こるイベント展開が程よく誤魔化される。

理性的な計画とイメージとしての演出はまったくの別物である。計画をそのまま演出に転用してはならない。そうした演出が似合う作品もあるが、いま自分が作っているものには合わないやり方だ。

自分はこの数年間の反省から、端的かつ明瞭であることを常に心がけてきた。しかし表現や演出というものに関して言えばそれらは毒である。かつて6.7年前に創作を始めた時、自分は逸脱というものに創作の楽しみを見いだしていた。逸脱にブーストがかかれば、それだけアイデアが広がり筆が動いていた。確かにそれらはつまらないものだったが、明瞭さの練度を高めた今ならば、多少の逸脱は制御可能だろう。

以前どこかで書いた気がするが、制御下の範囲内で行われる逸脱は演出上極めて有効である。極端な逸脱は作品の方向性を完全に破壊し、展開に忠実な適応はありきたりでつまらないものになる。

適度に逸脱することが作品を面白くする。ならば単に完成だけを目標にするのではなく、多少の脇道は許容すべきであろう。