人生

やっていきましょう

932日目

自国の文化以上に異国の文化の方が近いと感じる時がある。一見奇妙なことのように思えるが実はそれほど珍しいことでもない。いまは文化が土地に強く限定される時代ではなく、世界中のあらゆる文化が国の垣根を超えて流れて来る。自分の場合、それはインターネットによるものだった。

自分の生涯の大半はインターネットと共にあった。ネットは自らの故郷である。そこに流れついたいくつかの文化もまた、自分の文化である。それは現実世界の、日本という国を源流とする文化であるとは限らない。どこか異国の、素性の知れない文化も混ざっている。にもかかわらず、それが自分に近いと感じるのである。

遠くのものの方が近くに見えるという遠近感の矛盾は、遠くのものばかり見ているからこそ抱くものである。星を見る者にとっては実際の物理的距離以上に地上で行われている些事の方が遠く感じるだろう。同じように、現実世界で人づてに伝達/継承されている文化に自分は疎い。

とはいえ、ネット文化にも日本発祥の文化とそうでない文化がある。そしてやはり日本の文化に対して半分は遠いものを感じる。現実世界の流入を除けば、日本における主流のネット文化はアニメや漫画、ゲームといったものになるが、自分は前者に近いものを感じないのである。四半世紀をほとんど日本のアニメや漫画と共に過ごしてきたはずだが、特に日本のアニメには明らかな断絶を感じる。

日本のアニメ(全般であるとは言えない。観測範囲は極めて限られているがいずれも似た印象を覚える)に対する面倒な過去がそうさせているのかもしれないが、それを抜きにしても見ていて苦しいものがある。その原因は何かと考えたが、おそらく絵柄や発声音以上に【押し付けられるような感情表現】と【コミュニケーションのための笑い】が苦手なのだ。奇妙なノリで行われるボケとツッコミや、馴れ合いの笑いがそれである。最近海外でもこの手の作品が増えたが、同じような嫌悪感を覚える。

自分が好ましく思う笑いは【笑いが非明示的で読み手の自発的な解釈によって発掘される笑い】もしくは【コミュニケーションの否定のための笑い】である。

前者はユーモアやブラックジョーク、あるいはツッコミ不在の笑いにしばしば見られるものである。それらが面白いのは何が面白いのかを明確にしないからであり、マジックのタネを明かしてしまったら途端につまらなくなる。

後者は馴れ合いのためではなく、他者の否定のために行われる笑いである。好例を挙げるとトムとジェリーが有名だろう。両者が互いに闘争を仕掛け合い、その結果として生じる凄惨な状況が笑いを生む。そこに感情を挟む余地はない。

いずれの要素も満たしてしまうものが海外の冷笑的、または暴力的なネット文化であり、そこには強いノスタルジーを感じる。海外のものである必要は無いが、異文化言語を翻訳し解釈するというプロセスが自発的な接近を生み出し、それが独自の笑いの発見に繋がっている。

ある種の未熟さが自分の笑いの感性を生み出しているとも言える。社会関係に価値を見いだす人間にとってはコミュニケーションの否定を好ましくは思わないだろう。自分がそれらを好むのは対人能力が著しく低く、他人の感情に合わせることが苦手なためかもしれない。