人生

やっていきましょう

951日目

冷笑や論理は弱者に与えられる武器だという話を誰がしていた。これは本当にそうだと思う。人の努力や功績を冷笑している人間を見ると、あるいは人の些細な誤解やミスを何でも論理で喝破したがる人間を見ると、彼らはそうしなければ生きていけないほど弱い人間なのだと思う。

これは自分の問題として同じように捉えている。自分もまたある面で冷笑や論理に頼らなければ生きていけなかった人間である。対人不安や咄嗟の表現が出てこないという致命的な欠点を補うためには、可能な限り熟考し論理的に正しく、かつ冷笑的である必要性を少なからず感じていた。

ところで自分の創作では、まさにこうした人物が登場する。パーティの仲間が結束しようとしている時に一人だけ論理や冷笑を投げかけて場の雰囲気をぶち壊しにする。こうした論理と冷笑を体現した道化は作っていて面白い。それはある種自分の理想像であるからだ。

しかしただ論理や冷笑をぶちまけるだけの表現というのは問題がある。率直に言ってつまらない。それは結局のところ強者の皮を被った弱者の妄想でしかないからだ。強者が一方的に弱者を論理と冷笑で虐げるという演出は、弱者の願望を創作上の虚像に投影しているだけの自己満足にすぎない。しかしそれは現実とあまりにかけ離れているので、見ていて気持ち悪いと思う(余談だが、こうした表現は最近本当によく見かける。自己主張と表現の区別のない臆面の無さは大したものだが、自分には理解できない)。

論理や冷笑にはある種の弱さを匂わせなければならない。特に人間関係を演出する場面では、何らかの形で当の人物が劣位にあることをプレイヤーに示さなければならない。そこに自分は論理や冷笑のリアリティを感じるのである。

自分の創作の場合は、そのキャラクターが「道化」であるという共通認識がパーティ内で共有されており、あいつはああだから仕方ないとそのまま主人公たちに相手にされないという損な役周りを与えられている。

彼は道化なので敢えて論理や冷笑を用いて弱者と見做した相手に牙を剥く。しかしその対象は実は全方位に向けられており、強者であろうと弱者であろうと彼の標的になっている(彼の中ではすべて弱者ということになっている)。それが刺さる場合もあるが、当然強者には通用しないので返り討ちにあう。そこで彼は道化なのでプライドも見栄もなく、すぐ謝ったり陰口を言ったりする。彼は小物であると印象づけられれば尚良い。それは結局のところ冷笑や論理に対する冷笑であるからだ。

冷笑というのは自身に向けられる冷笑を進んで受け入れることによって正当化される。その正当性は一貫性によって担保される。ただ単に自己保身のために冷笑し、自身を強く見せようとして自身の弱さを隠蔽しようとする人物というのは正当化されるものではない。自分の内面はそれで良くとも、外の世界では通用しない。それが冷笑というもののリアリティである。

先程自分はリアリティと述べたが、本当の意味で弱者を演出しようとするならば、上記のようなまったく面白くないキャラクターが生まれる。実のところ道化は自ら進んで愚行を行い笑いを取れるという点で強者の部類に入る。本当の弱者にはそれができない。弱者のリアリティは論理と冷笑に縋らなければならないという点に表れるが、それ以上にその弱さをひた隠しにしようとするという点に表れる。しかし自分はそのキャラクターを敢えてそう演出しなかった。そこまで行くと悲劇になるからである。

道化は劣位の存在であることを作り手が自覚、あるいは周知させているからこそ好き勝手なもの言いを正当化できる。道化が劣位であることを止め、作者自身の本心の代弁という形でその正当性、権力が与えられると、それはもはや道化ではなくなる。これが道化の表現として難しいところだ。道化は思慮に欠けた行動を敢えて行い、その必然の結果として起こる最悪の出来事を正面から受け止めて笑いを取る必要がある。あいつはバカだと笑われなければならない。論理や冷笑を振りかざした結果として、腕力のある敵や権力者、仲間たちから反撃に合って萎縮しなければならない。しかしそれでも、論理や冷笑の切れ味は見る人間が見ればわかる鋭さであるべきだ。それが論理と冷笑を武器とする劣位の道化の魅力となる。