人生

やっていきましょう

952日目

雑な連想に頼った思考の恐るべきことは、その連想の行き先が予測できないということである。自分が長年思考と呼んでいたものが実はこうした雑な連想であるということに気がついてからもう何年も経っているが、未だに自分は連想に依らない純粋な論理的思考というものを体得できたという確信が得られず、連想を限りなく論理の側に寄せるということしかできていない。

政治家や芸能人の失言も同じ問題を抱えていると思う。彼らは自分と同様、本当は言葉が連想によって無意識に紡がれたのではないか。批判する人間は発せられた結果のみを見てその思慮の無さを批判するが、果たして人間は自らの言葉がいかように解釈されるのかということを厳密に予見できているのだろうか。

確かにそれくらいのことは少し考えてから話すようにしていれば容易に回避できるものであると思える発言も少なくは無い。しかしそのような注意を常に行える人間はどれだけいるのか。

問題は思慮と警戒以上に発言が容易にできてしまうという点にある。自分ができることと言えば、自分が発言をする前に何を言おうとしているのかを理解すること、それが曖昧な印象ではなく、できるだけ事実に基づいた発言を心がけるということ、失言を自覚していれば素直に白状し謝罪することだけである。それで問題を回避できるかは分からないが、大きな失敗は避けられると思う。

自分は時として哲学的ゾンビのような妄想に囚われる。自分以外のすべての人間が論理的に正確な思考を有し、自分だけが雑な連想を思考と誤認しているのではないか。もしそうならば自分は連想的思考の持つ危うさを一層自覚的になり、かつ警戒しなければならないのではないか。そのように考え、迂闊に発言ができなくなっている。

こうした非論理性に対する際限のない恐れというのは、対人関係の無さゆえに生じた妄想であると認めるべきだろう。おそらく多くの人間はそれらしい言葉をそれらしく連想しているに過ぎず、言葉の意味に対してそれほど厳密であるわけではない。しかし、自分はそれを未だに信じることができない。

自分は平然と過ちうるということを受け入れるべきだ。さして賢くもない人間が足りない頭を使ったところで、なんとなく連想によって紡がれる思考からは逃れられない。自分が悪いと思ったら素直に謝る。そもそも過ちうる連想に反射的に食いつかない。何度も試行錯誤し、何度も失敗し、ひたすら論理に寄せていくことが連想を制御できる術ではないか。