人生

やっていきましょう

963日目

自分は本当に生きていて良いのだろうか。生きている実感を失ってからもう何年も経つが、未だに自分が生きていて良いという確信を得ることができていない。

そしてまた、自分が死んで良いという確信も得られていない。自分の中で死の誘惑がまったく無意味なものになってしまった。自分は心が既に死んでいるのである。今更自身の生物的な死を早めたところで何になるのか。

かつて希死念慮を抱える人間に近いものを感じていた。今では遠い存在になってしまった。希死念慮を超えるほどの空虚、自分の感情がもはや自分のものとして関連づけられず、単なる対象に成り果てた抜け殻、そんなものに今の自分は近いものを感じる。

これは幸運だったのかもしれないし不幸だったかもしれない。自殺を回避したという点では良かったと思えるかもしれないし、死に抱いていたある種の神聖さを失ったことで余計に不幸になったとも言える。

少なくとも生きている限りにおいて生者は死者に優越する。生きていても死んでも良いと思えるなら生きた方が得だろう。それは価値観の問題というよりも選択肢の量の問題である。死は取り返しがつかないが、生きている限り取り返しのつくことがある。自ら死を選ぶには強い信念がなければならない。自分にはそれがない。

自分には信念がない。否、正確にはかつて持っていた信念を捨てて、精神的に自殺したとも言える。自殺を経て自らの価値観は死んだ。以降の人生は空虚なものである。しかし始めから信念を持たなかったわけではない。苦しい環境の中で、虚弱で死にかけた自分の価値観をどうにか生かそうと懸命に努力した。その結果死んだのである。それは果たして正しいことだったのかは分からないが、何もしないで自己正当化だけをしていたよりは良かっただろうと思う。戦死の名誉に近い感情を、虚無に堕ちた自分が覚えるというのもどこか皮肉なものだが。

ただ空虚の監獄に入れられて、生きた魂の生きた人間模様を一生見せつけられるというのは苦痛である。自分もどうにかその世界に戻してくれと懇願したい気持ちと、それは無理だという諦め、あるいはその価値観をさも当然のように受け入れ、その外側が存在しないかのように振る舞う無垢な精神の持ち主たちに対する激しい嫉妬が自分の内面をかき乱すと、自分は望むと望まざるとに関わらず死んだほうがいいのかもしれないと考えてしまう。

彼らは悪気があって生きている姿を見せつけているわけではない。彼らは生に適応しており、それが自然にできているからそうしているにすぎない。間違っても自分が生きていることが奇妙だとか、異邦の感覚に支配されていると思うことはない。だから自分は孤独を感じている。

最近の自分は「死にたい」ではなく「死んだほうがよい(のではないか)」と考えることが多い。これは生者に対する迷惑を考えるというごく自然な反応だと思う。生きている人間は生きているという自明性の内に安心感を覚え、そこに同胞意識を抱えている。そうでない人間がそこにいるというのは、場の空気を悪くするだけである。

自分は死ぬにしても生きるにしても、ひとまず自分を持つことが重要であるだろう。自分というのは内なる自明性と呼んでも良いかもしれない。自明性の及ぶ範囲が無に等しい状態を自分は虚無と読んでいる。自分が虚無であるのは持たざる者であるからだ。もしそうであるならば、自分の中に意味や価値づけられる対象を増やしていった方がいい。それは希死念慮を強めるかもしれないし、生きる意欲を回復させるものかもしれない。いずれにせよ、自分が求めているものは自分ものと呼べる価値観である。死ぬかどうかはそれから考えても遅くはないだろう。