人生

やっていきましょう

969日目

比喩表現、例え話とは自分が強調したい主張を、その意図が相手に伝わりやすくするために簡易で明瞭で理解しやすい事例をもって置き換える手法である。例えば人生はりんごのようなものである、一度落ちたら木に戻れない、坂に落ちたら転げ落ちる、といったようなものだ。

しかしこれらの例え話はいくつかの問題を抱えている。大抵の場合、比喩表現には恣意性が宿っている。自分が先に述べたりんごの例は落ち続ける人生の例えとして挙げたものだ。しかしこの例え話は人生の肯定的な側面、すなわち何かの弾みによって人生が好転し得るという可能性について言及できていない。この比喩表現にはまさに自分の、人生は無意味である、落ち続けるばかりであるという主張が前のめりになっており、どちらかといえば中立的な分析というよりは主観的な感情表現に近いものになっている。

また比喩表現は恣意的であるがゆえに分断を招く。多くの人間にとって比喩表現は内なる共感を呼び起こすか、さもなければ一層の反感を持たせるものである。比喩は中立的事実を示すことに向いていない。主張の核というよりは、主張を補佐する装飾にすぎない。

比喩を用いる時、自分は自分で疑問に思う。自分は比喩を用いて恣意的に印象を操作しようとしている。そう考えると比喩を用いず確実な表現のみを扱った方が良いのかとも思う。しかしそれはそれで表現が味気なくなる。

果たして自分は比喩とどう向き合うべきなのか。少なくとも自分は自分が比喩を用いているという自覚を忘れないように注意する必要がある。比喩が自明になり自分から見えなくなると、装飾であるはずの比喩がふとしたことで目的となり、聞こえが良く分かりやすければ何でも良いと考えるようになってしまう。

おそらく言葉のレトリックを無自覚に巧みに使える人間ほど話が上手く人を納得させられるのだろうが、自分はこうした表現を息を吐くように使う人間を自分はあまり信用していない。創作では比喩は好んで使うが、それは現実で比喩に納得され、比喩を植え付けようとする人間達に対する皮肉だろうと思う。