人生

やっていきましょう

1016日目

インターネットに触れていた時間は長いが、実はそこまでインターネットの空気に馴染めていたわけではない。インターネットのオタクが面白がっていたノリが一般化されていくにつれ冷めていくオタクがいるように、実は自分はその文化の閉鎖性ゆえに居心地の良さを感じ、面白がっていたのである。

現実世界に適応できない人間を十把一絡げにオタクと呼んでいた時代があったが、オタクにも多種多様な存在がいる。現実世界の弾かれ者たちがインターネットに流れ込み文化を形成していく中で、単に自分はその弾かれ者のうちの一人だからという理由で、自分はインターネットオタクのノリを自らの文化として吸収していたようである。

しかしオタクにも合うオタクと合わないオタクがいる。例えば自分はゲームに明るいが、日本のアニメにはほとんど関心がない。ニコニコ動画に長く入り浸っていた頃、自分は創価学会やら淫夢やらといったインターネット特有の悪ノリみたいなものに居心地の良さを感じていたが、ニコニコ動画がユーザーに期待しているボーカロイドやアニメを皆で盛り上げようとする動きには正直冷めたものを感じていた。

インターネットオタクであるという理由で、インターネットの合わないノリをわが物として受け取らなければならないことには苦しいものがあった。しかしそれでも以前は自分がインターネットオタクであると自認していたがっていたものだから、多少は許容しても良いだろうと思っていた。しかし今ではもう、インターネットオタクの一員であるという所属意識を捨て、インターネットに漂うただの一個人であると思っている。

これは何というか、国や社会に近いものを感じさせる。きっと日本のことが好きでたまらない人間は、同じ愛国者の仲間たちとの微妙な関心のすれ違いに少なからず違和感を覚えていることだろう。本人はただ日本文学が好きという程度なのに、仲間内が天皇賛美に明け暮れていたら妙に冷めてしまうかもしれない。

この微妙なすれ違いをかつて自分は我慢してさえ、所属を優先させる価値があると思っていた。自分は脆弱な自尊心を、その所属によって解消しようとしていたのである。しかし今では自分の中でその分断が決定的となり、わざわざ好きでもない分野に顔を出して無理に自分が同胞の一員であると表明する必要があるようには思えなくなっていた。目的と手段の逆転であるが、自分はゲームや冷笑に関心があり、そのためにそれらにアクセスできるメディアに顔を出していたのだが、いつのまにかそこに顔を出すことが目的となっていて、自分の関心は二の次になっていた。実際に現実世界でそのようなことを何度も経験した。

こうした無理が嫌になり、何かに属するということを積極的に行うのをやめてしまった。自分は所属というものにうんざりしており、個人で情報発信している方が楽だと気がついた。当然孤独はあるが、何かに所属していたところですれ違いが起こり、自分の孤独が癒えることは無いのである。孤独を癒すには所属も有用な手段のひとつだが、自分が思うのは、それは自分が納得して所属している場合に限るということである。

それにしても、こうした自覚を持つに至るのは周りに比べて遅すぎたと実感することがある。自分の知り合いは気に入らない人間がいるとすぐにブロックして関係を断つことに抵抗がない。人間関係とは分かり合えないことの連続であり、古い人間だからか、そこに適度な忍耐があっても良いのではないかと自分は思うのだが、分かり合えない人間は即ブロックした方が健全であると本気で思っている人間が思った以上に多いようであり、既に人間関係の断絶がそこまで進んでいるのかと驚かされた。そう考えると自分はお人よしの部類に入っていたらしい。

自分はこの分断を修正する気にはなれない。他人にそれを強いるとそれは歪みとなり、相手を拘束することになる。自分はかつてそうなりかけた。中学の頃、部活に来なくなった同級生を無理矢理部活に戻そうと必死になっていた。今思えば悪いことをしたと思う。他人とのすれ違いを修正しようと必死になればなるほど、自分は相手を拘束することになる。それが行き過ぎればパラノイアのようになるという自覚が自分にはあった。だから他人には、たとえ近しい人間でも踏み込みすぎないことが健全であるという理解に至った。

これから先インターネットと自分はますます分断されていくだろう。所属のために自分を我慢するということはなくなり、自分が面白いと思うものであれば万人が面白がっているものにも顔を出し、つまらないものであればオタクの間で評価が高いものにもつまらないと思うだろう。個人主義の課題はその癒えない孤独にあるが、しかしこうした気楽さがあってこそ自分は一個人である方が良いと思えるのである。