人生

やっていきましょう

1029日目

3年前の亡霊を再び思い起こして未だにToeicに取り組もうとしている自分に恥じらいの感情は既にない。今の自分の関心はかつて自分が生きていた頃の供養であり、ゲームの創作にしろ、Toeicにしろ、そこに墓を建ててこそ自分の死が報われるという思いがある。

こうした個人的な感情に対して、必要以上に他人に配慮しなくて良いというのは気楽なものだ。ご高齢の老人が未だに勉強に取り組んでいるときに覚えるであろう心境と同じものがある。それは無意味で無価値の危機と隣り合わせの、個人的で、それゆえ有意義な時間の過ごし方である。

これを余生と呼ぶべきか、あるいは将来への投資と呼ぶべきかは判断に迷うところだが、いずれにせよ振り回される他人がいないということに今の自分は安らぎを覚える。これからもブログは勝手に書くだろうし、創作も勝手に作るだろう。

個人主義とは何かということを個人的な目線で考えてみた。個人であるということは、自分とは異なる他者が無数に存在しそれらの影響が絶えず飛び交う中で、自分自身であろうと欲し、そのために何らかの対処を行う自由が自他ともにあることに価値を置く考え方である。主に個人主義が主張されるのは集団と個人の利益が衝突したときであり、個人主義にあって個人は集団の圧力から独立した存在であると言うことができる。

こうした考え方は自分が強く切望していたはずのものでありながら、実際のところあまり現実味を持って捉えられていない。個人主義の核は信頼できる個人というものがあって初めて成り立つのであり、個人を抑圧し集団に迎合続けてきた自分にとってはどこか遠くの出来事のように感じる。個人を失した人間にとって個人主義は一見あまり意味が無いように思う。

かつての自分の状況とは次のようなものだ。元々自分は集団に迎合したがっていたわけではなかった。しかし迎合しなければならないという圧は感じていた。自分は自分の意見を持っており、時には集団に反し、時には集団に適っていた。しかしどういうわけか、他者を前にすると自己は全否定されるという絶対的な信念があった。この荒唐無稽な妄想の原点をこれまで何度も探ってきたが、これといった覚えがない。

おそらく何かちょっとしたことで他人に否定されたという経験を、自分は大きく受け止めすぎてしまったのだろう。ネットの悪口か、クラスメートや先生に言われた言葉か、いずれにせよ、重く受け止めすぎていた自分の不安を解消する機会を失って、ここまで年を取ってしまった。

だから個人主義というものが自分には未だによくわかっていない。頭では分かるが心が伴っていないのである。自分が関心があるものに関心があると言える自由があるといっても、そもそも自分の関心はどこにあるのか。抑圧の過程でそぎ落とされてきた自己の関心は、今やどこにも見当たらない。自分の関心、あるいは個人と呼ぶべきものが自分から独立しているという感覚にあるとき、個人主義をどのように受け止めれば良いのか。

この問いに個人主義は答えを与えてくれない。個人主義とは個人を持つ人間にのみ答えを与えてくれる。そういうわけで自分は個人になろうと努めており、現にそれはある程度成功している(これは自分に課した無理ではない。自分は個人主義を自分にやさしいスペースを自分で作ろうという程度にしか考えていないので、半ば気楽なものである)。

しかし未だに個人の揺らぎを感じる時がある。自分に対する信頼が無の上に立った虚構であると感じて不安定になることがある。そういう時に個人主義者はどう考えるのだろうか。自分は個人主義者というよりは虚無主義者に近い人間なので、虚構でも良いから集団に迎合するよりは個人を演じていた方が良いという、妥協的な価値観になる。その揺らぎこそ、自分がより感じられる現実だからである。

虚無主義者はしばしば現実をやっていくという言葉を好んで使う。このやっていくという言葉は「現実」という虚構を自覚的に演じていくという冷笑に近い自己憐憫に基づく。自分はこの言葉と同じ地平で「個人」というものを見ている。個人もどうせそう思いたがっているものの寄せ集めだろうという諦めがある。

だから自分は個人主義者にはなれないが、しかし個人主義に近いところでは生きていきたいと思っている。結局これはどの服を着たいか、どのアバターでゲームをしたいかという話と近いものだと思う。自分が露悪的なインターネットオタクの仕草がかっこいいと思うのであればそうすればいいだろう。冷笑と書かれた安物のTシャツを個人と書かれた厚着で覆うのも、表象を捨てて単色アイコンになって価値づけを放棄するのも勝手である。ただしいずれの場合も、価値の代替可能性が付きまとう。信念を失した現代人特有の何者にもなれないという不安は、まさにこの実存性にあると考える。それでも自分は個人という価値観を好ましく思う。