人生

やっていきましょう

1030日目

冷笑は自身に矛先が向いている限り表現としての妥当性を有するというのが自分の考えである。ある特定の対象を小馬鹿にしただけでは不十分であり、その言葉がそのまま自分のプライドや体裁、考えや価値観をズタズタ引き裂かなければ意味がない。そうした痛み分けがあって初めて、冷笑はその鋭さを際立たせる。

これは本来的な意味での冷笑ではないということは理解している。冷笑とは純粋に他者を嘲るもの全般のことを指すのであり、他人の考えや価値観の浅はかさ、その陳腐で滑稽なものが実際にはこれほど程度の低い妄想なのだと引きずり込む悪意そのものである。

しかしこうした悪意を持つ人間は、往々にして自分についても同様の悪意が向けられ得るという場合を考慮しない。それを受け入れた上で冷笑を吐くのであれば筋が通っているというものだが、しかし現状、冷笑は自分の立場を守るための手段として用いられている場合が少なくなく、そうした意図が透けて見える笑いを自分はあまり面白くないと思ってしまう。

ところで自分の冷笑は、まさにそのようなものとして他者に受け止められているのだろうかと考えることがある。自分は(多くの冷笑屋と同様)冷笑の種明かしを嫌うので、それが当の対象ばかりでなく自己に向けられたものでもあるという自覚を公にはしていない。しかし人間とは、時に公にされているもので判断される生き物である。自分にはそれが露悪のつもりでも、傍から見れば他人の純粋な心を蔑むようなイヤミな奴としてしか映らないのではないか。

そうであれば、他人に対して申し訳ない気持ちになる。自分は冷笑を自己正当化の為に行っているわけではなく、自戒と自責をもって行ってもいるのである。冷笑のユーモアを解せずそれらを純粋な悪意と感じたのなら、そのナイフをこちらに刺すと良い。その余地は予め用意されている。そうしたフェアな精神が自分にある。

仮にもし誰も傷つけないように配慮するならば、まず第一にこの事実を明らかにすべきである。しかしそれではすべての笑いが台無しになる。だから自分は言わないし、これからも用意された公正なナイフでこちらを刺す余地を与えるだろう。