人生

やっていきましょう

1031日目

自分より若い人たちの間でコンテンツを倍速で消費することが流行っているらしい。時間をより効率的に活用したいという考えからか、あるいは単に時間を取られることが嫌なのか、とにかく動画や音楽を圧縮して消費しようとする。

この新たな風潮に対する違和感は少なからずあるものの、まったく理解できないものではない。多くの時間を費やさなければ消化できないものは、手にとって嗜むということ自体が億劫になる。自分がドストエフスキーメルヴィルといった長編小説に挫折したのはまさにこのためであった。膨大な時間をかけて膨大な虚無と向かい合う、今の時代からすれば長編の文学作品にはそういった苦しさがある。

ある意味で、自分もまた圧縮されたコンテンツを嗜んでいると言える。かつて文学が膨大な白紙であり、それこそ一冊の本が構想から推敲に至るまで数十年の歳月を費やして描かれてきた時代には、読み手もまたそれに相当する深遠な時間感覚を有していた。

その感覚は今の自分からすれば到底理解できるものではない。漫画やアニメ、映画や音楽が持つ時間的制約に日常的に触れている自分にとっては、どこまでも圧縮されていない膨大な虚無の文字列を、際限なく追い続けることが難しくなっている。

そう考えると彼らがコンテンツの消費に1時間も耐えられないという気持ちが分かってくる。自分の世代の時間的制約が一冊の本ではなく、映画や漫画、1クールのアニメなどに基づいているとすれば、次世代の時間感覚はいつでも好きな時に場面を飛ばせて、時間を自由に圧縮できる、ネットメディアの利便性に基づいたものになるだろう。その過渡期に今の自分は存在し、現にその影響を受けている。家で映画を見ている時、ふとしたことでスマートフォンに触っている自分がいる。彼らのことを手放しに笑うことはできない。