人生

やっていきましょう

1033日目

自分が好む笑いは、タブーやモラルを破壊し尽くし、散々暴れ回った挙句自分も相手も最悪の結果に終わるというものである。相互破壊的であることが笑いの前提であると考えているので、自分の優位のために行われる笑いや、人間関係の調整のために行われる笑いは正直良く思っていない。

自分は特に自虐に基づく冷笑を好んでいる。自分は冷笑という棍棒で全方位に殴りかかって笑いを引き出したいが、しかし同時に党派性から独立していたいという願望を持っているようである。そのため棍棒を振るうことが、そのまま自尊心を削る自虐を導くような冷笑を強く肯定する。こうすることで冷笑に正当性が得られると考えている。

これらの破壊的な発想は、厳格なタブー意識とモラル意識の上に成り立たなければならないと強く実感する。何を破壊すれば面白いかという判断に利するという点もあるが、それ以上に破壊的な発想に自分が支配されることを防ぐためでもある。

多くの人間が普段からそうしているように、破壊的な発想を抱くだけなら誰でもできる。しかし破壊的な発想を支配することができている人間はあまりいない。自分のタブー意識、モラル意識の無さをそのまま自分の面白さだと思い込んでいるうちに、世間の笑い感覚から乖離していることに気づけなくなってしまう。昨今の芸人や政治家の失言は、まさにこの自覚の欠如による。

自己を客観的に捉え続ける努力を欠いた笑いは、いずれ自分だけが面白いと思っている笑いに堕すると確信している。既に何度かこうした傾向を自覚することがあり、改めて注意の必要性を感じる。

人は止めてくれるものがいなければ、どんどんその人自身の考えに支配されてしまう。自分と向き合う時間が長ければ長いほど、自分と世間との接点は少なくなる。だからこそ自制する心を持って先鋭化する自身の傾向にある程度歯止めをかけ続ける必要がある。それが自分の暴走を食い止める助けとなるからだ。

独我論的な立場からすれば、世界には自分しかいないのだから自分が破壊的な発想に支配されてどうなろうと構わないという見方もある。そう考えると、そもそも歯止めをかける理由もない。しかし自分は、どこまでいっても集団における個人であると自覚している。普段人と関わらない自分でさえ、どうすれば他人が面白いと思える笑いが生み出せるかを考えてしまっている。笑いにウケを求めてしまう以上、完全な独立はあり得ない。

ところで自分は、笑いを追求する上で観客の存在を必要としているようである。他人の目というスクリーニングを超えた何かを、自己満足的な粗い基準の上に置いているようである。これには意外だと思った。自分は孤立を望んでいるが、完全に他人を排除した世界を求めているわけではなかった。

要するに自分は孤立ではなく独自性を求めていたことになる。山の中で自己満足の王国を築くのではなく、社会の中で唯一であることを自認したがっている。そう考えるとモラルやタブーを破壊したがっていながら、TPOやコンプライアンス意識に神経質であることも理解できる。