人生

やっていきましょう

1034日目

口を開き誰かと話したことを思い出す。言葉に詰まり修正と懐疑を頭の中で繰り返しているうちに、途中で自分が何を考えていたのか分からなくなる。そうした経験の積み重ねが自分を会話から遠ざけ、なるべく人と関わらないようにするいくつかの動機を生み出す。会話の不得手さえなければ、人と関わるのは楽しいものだっただろう。

何が自分の会話の障害となっているのか。自分の会話に注目すると、自分はひとつの言葉に多くの情報を詰め込もうとし過ぎていることが分かる。

例えばかつて次のような話をしたことがある。用件はAの解決であるが、しかしAを対処する前に先にBを解決する必要があり、Bに対してCという方法で解決しようとしたが失敗した。Bの解決策は何か思いつかないか、またAはどう対処すればよいか。

文にすれば一見何の違和感もないこの文章も、会話になれば途端に分からなくなる。自分がそう話している最中、こうした会話の連続が相手に伝わりにくい表現であることに気づいてしまい咄嗟に修正しようとすると、次の瞬間自分が何を言おうとしていたか部分的に分からなくなる。明らかに詰め込みすぎた情報に自分の脳が対処し切れていない。

自分の問題は言葉を伝達可能な要素に切り分けるということができていないという点である。もっと正確に言えば、それらの言葉を伝達可能な要素に切り分けて良いかどうかの判断が自分でできないという点に問題がある。

先の話の場合、Aが主要な問題でBは付加的な問題、解決は望ましいが緊急性はない問題だった。そのためまずは第一にAの解決という要点を真っ先に相手に伝える必要がある。その過程でBというサブの問題があり、それを対処するならばこちらを先に解決する必要があるという旨を伝えた方が良い。CについてはBの話題の中で更に補足として発言するか、そもそも発言しなくても良い。このように問題を切り分けて考える。

しかし自分が言いたいのは、こうした問題の切り分けられた構造を、口頭でどのように伝えるべきかということである。連想的に考えた時、AとBとCが一斉に頭の中で沸き起こり、何から言うべきか混乱する。

問題は一度の会話に情報を詰め込みすぎていることである。一度の情報は自分が思っている以上に削ぎ落として良い。身近な人たちの表現をじっくり観察すると、驚くほどに情報量が少ないことに気づく。この少なさが、彼らの言葉に流暢さを生み出している。

Aを言う段階でABCが分かっていたとしても、まずはAだけを伝えてしまえば良い。その時自分は有り余る空白を感じることができるだろう。そこに次の話を考える余地を与え、Bもまた少ない量にとどめておきながら繋げやすい表現にする。