人生

やっていきましょう

1036日目

他人のブログを見ると、思った以上に内容が個人的なものであるものが多いということに気づく。Twitterもそうだが、思考の過程を書き留めるよりも、こうした何気ない文章を書いている方が本来の使い方に適っているように思う。

しかしふと思うのは、個人的な内容の話題というのは得てしてあまり面白くはないということだ。今日はどこで何をして楽しかったという話題は、結局それが自分や相手にとって何なのかという答えを明示できず、単なる自己満足ではないかと思ってしまう。

自分はそうした書き方が得意ではない。自分自身の感情をそのまま肯定できない人間なので、ひたすら客観的に書き続けるか、大して面白くもない自虐に走ることしかできない。

そんな自分と比べると、自分の経験とその時の感情を肯定できている人間は何と出来上がっていることか。真っ当な人生を生きてきた人間の歪みない感情には感心を超えて畏敬の念すら覚える。

側から見てどうでもいいようなこと、それこそどこそこへ行き、何を食べ、何を買い何を遊んだかを、そのまま文章にして出すということに自分は抵抗がある。それの何が面白いのか自分にはよく分からず、自分がそう思うのであれば他人もそうだろうと邪推してしまうからだ。

しかしここには根本的な誤解がある。そもそもその人がその人の日常で何をしたかということを書くのは、別に誰かに面白がってもらうためではない。はっきり言えばどうでもいいようなものばかりである。しかしそう捉えているのは、自分が彼らのコンテンツからその人の属人性を引き剥がしているからである。

自分の日常を共有し共有されることを自明に思っている人達は「何が」よりも「誰が」に重きを置いている節がある。自分の友達が今何をしているか、ということがリアルタイムで観測できるから面白いのであり、そのことを期待し期待されている関係にあれば、自分のつまらない投稿を垂れ流そうという気にもなれる。

そう考えると、自分がTwitterに居心地の悪さを感じていたのは、その人間が発信していること自体に興味を持てず、むしろその人間の発信した話題の面白さに期待していたからだろう。どうでもいい情報だと感じるのは、そもそも自分が他人の人格に関心の無い人間であるか、自分がこれまでそうした人格肯定のネットワークに参与できていなかったからだ。

これまで自分はそうした内輪の関わりを馴れ合いなどと呼んで避けていたが、それは結局自分が彼らを面白投稿コンテストとして捉えてしまっていたところにある。そうではなく、彼らは社交クラブの一員として今日何があったかという近況報告をしているにすぎない。それは互いの信頼を高めあうという社会的な欲求に基づいている。

自分はどうするべきか。率直に言えば自分は適度に孤立していた方がいいと考える。自分の近況は自己満足のブログに吐き出し、Twitterは面白い投稿でもリツイートしていればいい。

無理にどうでもいい近況を吐き出して関心を惹こうとすると、反応があればもっと反応が欲しくなり、反応が無いとかえって煩わされ、無視されていると勘ぐり、仕舞にはやりたくなかった馴れ合いを無理にしてやっているのに恥だけをかいて何の得もなかったと怒りを募らせることになる。書いていて歪んでいると思ったが、こうした歪みは対人経験の無さに由来する自分の極端な距離感から生まれていると考えれば仕方のないことである。

最良の道は自分の感情に従うことである。自分は身内の馴れ合いよりもどこの馬の骨とも知らぬ人間の面白いコンテンツに居心地の良さを感じるので、無理に馴れ合うことはしない。しかし逆に強がって無理に孤立しようとすることもしないだろう。自分を維持できる範囲で他人とは関わっていきたいと思う。

結局ブログは今まで通り、頭の中のことを毎日吐き出していた方がいいだろう。たまに日常で面白いことがあれば、それを話題にすれば良いのではないか。