人生

やっていきましょう

1040日目

久々にゲームの開発をしたところまったくアイデアが湧いてこなかった。つまらないネタしか思いつかず、嫌になってやめてしまった。

自分は自分の表現を嫌悪している。いつからか分からないが、自分の作ったものに吐き気を催すようになった。昔はそうではなかった。自分の表現が面白く、いつも楽しく創作していた。

嫌悪の根源を遡ると大体、表現の技術的な欠陥を個性を持ち出して隠蔽し、正当化しようとするところにあった。かつて自分の絵は自分にしか描けない個性を表現する場だった。しかしそれらは絵というにはあまりにお粗末な出来だった。それでも自分はその粗さが自分の個性であると信じてやまなかった。そんな現実離れした妄想を抱いていた記憶が蘇るので、絵の創作は未だに手をつけられないでいる。

それと同じことがゲームでも起きている。自分の表現の稚拙さ、表現を支える背景知識の欠如を思うと、自分の表現に自信を持つことができない。だから嫌悪を抱かせる。

しかしあまりに嫌悪を抱くというのも奇妙なことだ。自分がもし本当に表現の才能がないなら、なぜそのことに苦しまなければならないのか。自分にはスポーツの才はないが、サッカーが下手であることに苦しんだことはない。にもかかわらずサッカー自体には興味がある。

それは観戦者の立場だからで、当事者として取り組んできたわけではないからだと言うなら、確かにその通りだと思う。自分が長い間経験して上手くいかなかったものは大抵嫌悪を抱いている。しかしApexは下手でありかなりのストレス源でありながら、失望するほどの嫌悪を抱いたことがない。

やはり競技というより表現で失敗することが嫌なのだろう。表現は望むと望まないとにかかわらず自分というものの一側面、あるいは限界というものを映し出す。どれだけ自分に自信を持とうとしても、自分のどうしようもなさを非情にも暴き出す。それが苦しいのである。

自分の肯定的側面もまた表現は映し出すかもしれない。しかしそれ以上に自分が存在しているということの気味の悪さ、ばつの悪さが際立っている。

だったら表現者は皆そこにいること自体が異質であるはずではないのか。これだけ世の中に作家崩れが溢れていながら、なぜ自分だけに違和感を感じるのか。確かに彼らの表現に嫌悪を感じることはあるが、不思議と違和感を覚えないのである。それらは背景に近く、ただ自分に対してのみ違和感がある。

客観的に見れば、第三者にとっては自分も背景の一部でしかない。その背景が何の表現をしたところで、そもそも視界に映らないか、何か馬鹿なことをやっているとしか思えないだろう。所詮表現などその程度のものである。ならばなぜ自分はこれほどまでに違和感を抱いているのか。

自分は表現を通じて自己存在の証明を行おうとしている。やり残しの後始末と称しながら、無意識のうちに自分の中に独自の価値を認めようとしてどこか必死になりすぎている。

しかしそんなものに振り回される必要はない。創作は自分の価値の欠落を埋め合わせようとしてやるものではなく、本来ただやりたいからやるものである。繰り返すがその程度のものである。

自分の表現を嫌いになったらこう考えると良い。表現は自分の不完全性を映し出す鏡である。したがって表現はいずれも失敗作である。しかし言い換えればそれは課題もまた与えてくれるということである。何をしても失敗であるならば、開き直って失敗を受け入れてしまえばいい。自己肯定の場としてではなく、試行錯誤の実験場として自分の表現と向き合うべきである。