人生

やっていきましょう

1042日目

今の時代、誰かに笑いを取ろうとするならば、まず前提として何が面白いかということが自分と観客の間で共有されていなければならない。またそのことを笑いを取る側が自覚していなければならない。もし笑いが受け手との間で共有されていなかったとしたら、笑いは笑いとして成立し難い。むしろ冗談では済まされず、単なる加害と取られるかもしれない。

自分が笑いを仕掛けることについて根本的な恐怖を抱いているのはこのためである。笑いが笑いとして共有されない恐怖、むしろその意図が改変され、凶悪な人格の証左であると再解釈され、それが定評として確立されてしまう恐怖。

作者が優位にあった時代は終わり、今は受け手優位の時代である。受け手次第でその作品の作られた「意図」が決定する。こうなると笑いというものは極めて成立困難なものになるのではないか。

例えばあるお笑い芸人がAという属性を持つ人間達を揶揄って笑いを取ったとする。Aの属性を持つ、あるいはAの属性の地位の向上に好意的な人間たちはこれを不当な悪意であるとして反対しネットで炎上したとする。本人からすれば軽い冗談のつもりが、Aの支持者達はこれを許されざる悪と断定する。こうした考えが公共の通念として浸透した時に、当の芸人を含めメディアやお笑い芸人たちの間でAの属性を揶揄うのはやめようという合意が生まれてくる。

では芸人は次のBの属性を揶揄うだろうか。おそらくBの支持者達も当然反発するだろう。そうなるとその芸人は予見できる限りの属性に対して配慮しなければならなくなる。すなわち属性を揶揄う笑いそのものの撤廃である。

いったい、あらゆる属性に配慮する時代の笑いとはどのようなものになるのか自分には想像がつかない。人を人種や特徴で罵倒することばかりでなく、例えば子どもが何かを頑張っている姿を見て微笑ましく思うことでさえ、子どもを消費していると見ればそこに悪意を見いだすことができる。ペットを見て笑うのは動物の権利を貶めているし、芸人自身が無能を晒して笑いを取ったとしても、それは無能に対する差別だと言うことができる。

おそらくそれぞれの属性について、これは許容できこれは許容できないというラインが各々の人間の中では異なっているだろう。そのラインは万人に共有された唯一の尺度ではない。しかし作者はその異なる尺度を有した不特定多数の人間に向けて自分の解釈を投げなければならない。この感覚は自分の恐怖を著しく駆り立てる。

笑いに限らず、自分は自分自分のあらゆる考えに対してこの種の恐怖を抱いてきた。それは自分が他人と関わらず、自分の考えを肯定され、そのまま理解された経験が少ないからだと思う。こうした暗闇の中で何が妥当であるかを考え続けた人生だった。しかし未だに答えが出ない。何か面白いことを考えると、本当にそれが面白いのか分からなくなる。