人生

やっていきましょう

1045日目

共同幻想を抱けない人間が、自分の立ち位置を失って自死に追いやられるというのはよくありそうなことだと思った。自分がこの国の構成員であるという誇り、この企業に属して社会にミッションを果たしているという自信、この文化を肯定し、この趣味を楽しむ仲間がいるという安心感、それらにまったく意味を見出せなくなった人間は、自分が存在している理由をどう見いだすことができるのか。

元から他人が別世界の住人であるように見えていたが、特に酷かった時期は文字通り他人が同じ人間であるようには思えなかった。自身が何かを肯定していること、それ自体が当然であると考えている人間はすべて狂信的に見えていた。

多くの人間は自分の価値観の妥当性を他者との関係から見出していく。しかし関わる人間が自分以外に存在しなくなると、自分の価値の妥当性は一気に失われる。自分の価値観が妥当であるという判断を、自分の信仰に委ねなければならなくなる。まさしく自分が正気であると信ずる強い意志である。

信念が強い人間は時に孤独を自分が選んだものとして納得するだろう。しかしそうでなければ、孤独はいずれ自分を狂わせ破滅へと導く。自分は大抵の人間よりも長い時間自分と向き合ってきたが、自分が正気であるという確信も安心感も得られたことがない。

自分はいくつかのゲームで小さなコミュニティに属している。あるいはこちらが一方的に属していると思い込んでいる。それらに属しているおかげで自分はかろうじて自分の価値観の妥当性を参照することができている。

もしそれらが無くなったら、あるいはそれらが単なる虚構であるという事実を直視し続け、自らの価値観の空虚さを誤魔化すことができなかいでいたら、自分はもっと早い段階で自殺していたと思う。

しかし不幸なことは、それらの虚構によって救われているという事実がありながら、虚構が虚構であると既に認めてしまっていることである。自分の中に価値観を肯定できる理由があっても、内心ではその価値を冷笑している。価値観の自明性を自分で殺している。

以前と比べて精神が安定したとはいえ、結局自分が直面している状況に変わりはないのである。いつだってその価値観の不毛さに耐えきれなくなり、どこにも自分の居場所を見出せなくなる可能性は十分にある。おそらく30代あたりで若さという大義名分が使えなくなり、この傾向は一気に加速する。そうなった時に自分はまだ生きていられるだろうか。