人生

やっていきましょう

1065日目

自身の弱さについて考える。自分が最も意識する自身の弱さとは、他人の影響から自分を守ることができない弱さである。他人が自分に干渉した時に、自分から他人に干渉することができない。常に下を向き俯いている。

これはこれまでの人生の中で自分と異なる他者との折り合いの付け方を学んで来なかったことに由来する。人生の早い段階からずっと自分さえ我慢すれば良いと考え続けた結果として、自分の意思決定が全くできなくなったばかりか、無意識のうちに我慢をしなくても良い相手に依存するようになった。それがうまくいかなかった時、裏切りのようなものを勝手に覚え相手を憎悪したこともあった。

面と向かって相手に要求を突きつけられず、自分が嫌だと感じる時に適切に相手と戦うこともできない。それが高じると体面上は苦笑いをしてヘラヘラしながら、その内面には相手への陰湿な嫌悪が常に渦巻くことになる。

こうした状態が一番危ないと思っている。こうなるといずれ我慢が効かなくなり、見境なく相手を怒りを爆発させるようになるかもしれない(世に蔓延る無差別殺人の動機は大体ここにあるだろう)。

あるいは、耐えきれなくなった自分を正当化する理屈を勝手に構築するようになるかもしれない。自分は今まで我慢してきた。だからもう我慢しない、我慢しなくてもいい。自分は自分の感情に従って生き、好き勝手やってやる、と。

もしくは他責の正当性を得て、ずっと他人に対する恨みを吐き続けるようになるかもしれない。自分は被害者だ。他人が自分に向けてきたあらゆる反応が自分を傷つけてきた。だから他人が全部悪い。他人は自分を察してこなかった。他人は自分のことを何とも思ってこなかった。だから他人が自分の都合の良い人間になるまで永遠に不満をぶつけてやる、と。

これまで多くの弱者がこのような誘惑に駆られて二度と戻ってこなかった。自分もこうした感情を抱いてこなかったわけではない。ただそれが適切な解決策ではないという自覚を、反復的な自省によって持っていたからこそ踏みとどまった。

何でも我慢すれば良いというわけではない。しかしこれまで我慢してきたからといって、すべての我慢を一斉に解放して良いわけではない。他人はこちらの経緯や都合を理解せず、自分が爆発したとなったらただその結果を見るだけで終わるだろう。

自分が正しく相手が間違っているという理屈も完全ではない。ジョハリの門で言えば、両者が正しく、両者が誤り、相手が正しく自分が間違っている場合もある。

そのため自分は次のように考えるべきだろう。第一になんでも我慢するということはやめる。相手が敵視していたり、自分を軽蔑している人間だと分かれば距離を取る。自分が感情を爆発させる前に軽い怒りをぶつけても良いかもしれない。我慢できるならそれに越したことはない。我慢できないなら距離を取る。

第二に自分の要求をもっと相手に突きつける必要がある。これは一般的な意味での話ではない。何でも我慢してしまう自分の立場から見ての話である。相手が不快な思いをしてしまうかもしれないと考えるのは正しい。しかしそのために自分を犠牲にし、自分のすべてを他人に売り渡すことは間違っている。それは結局自分の我慢に見合うものを相手が返してくれないことへの憎しみとなり、余計にストレスを抱えることになる。

第三に自分が被害者だと思いすぎないことだ。自分は確かに他人の利己心に振り回され続けた人間だが、自分もまた他人に利己心を振り回して生きている。その結果自分は誰かを傷つけてしまったかもしれない。

そう考えると、自分は誰も傷つけないようにしようと思ってしまう。しかしそれも誤りである。自分は自分を犠牲にしない生き方をもっと学ぶべきだ。自分が我慢する人生しか知らない自分には想定外だが、多くの人間は自分の欲求に従って生きている。彼らは問題しか起こさないのだろうか。そうではない。彼らは自分を出す加減というものを知っている。だから自分を出すことがそのまま問題に繋がるわけではない。自分は自分を出すことの加減を知るべきだ。

今日は自分の弱さについて3つの対処法を考えた。何でも我慢しない、もっと自分の要求を出す、被害者感情を抑えて自分を出す加減というものを知る。少なくともこれで他人と渡り合えることができるはずだ。