人生

やっていきましょう

1079日目

家族に頼まれて英語を翻訳する機会があり、いくつかの短いエッセイを日本語に直すのを手伝った。

エッセイは英文の中でも難しい部類に入る。論文や記事などであれば書き方やロジックが定まっているので訳しやすい。しかしエッセイは少し捻りのある表現が多く用いられ、どう訳していいか分からなくなる。

大学入試やtoeicとは異なり、分からない英語はすぐに調べることができる。だから単語の問題は意外と何とかなる。問題はどう置き換えたら意味が通じるかというものである。単語は分かりニュアンスは何となく掴めても日本語にできない文というのを何度も目にした。その度に日本語と英語の隔たりを感じることになった。

あるエッセイの言葉がどうしても分からなかった。その表現を理解するためにDeepLやGoogle検索を駆使してセンテンスの一部、または全部を打ち込んで、表現に関する情報を調べ尽くした。

あるソウル出身の学生はその意味する言葉をネットの識者に問いかけていた。その疑問というのも自分が抱いていたものとまったく同じものだったから驚いた。なのでその答えに期待したら、曖昧な返答しか書かれていなかった。

別の日本人女性は、その意味する言葉が東大の入試問題みたいだと自身のブログで書いていた。本人にも意味が分からなかったらしく、ただ英文を載せていただけだった。

しかしこの日本人のブログから、その文がある自己啓発本からの引用だということが分かった。その和訳本は奇跡的に家に置かれていた。埃を被った本棚から取り出して該当するページを確認した。

するとその訳本はその部分だけをあっさりとカットしていた。そんなことがあるかと一瞬目を疑ったが、何度見てもその部分だけの訳が消えていた。きっとその訳者も自分たちと同様、意味を取ることに躓いたのだ。

きっと多くの輸入された自己啓発本も、このような思い切った省略が成されているのだろうなと考えた。しかし確かにそのセンテンスは著者自身の自己満足で書かれた印象があり、一般向けに出版する上ではむしろ無い方が意味が取りやすいように思う。それにしても翻訳というのは実はある程度のいい加減さで成り立っているものだという一面を知ることができたのは面白い経験だった。