人生

やっていきましょう

1081日目

もし誰かが自分に危害を加えようとしてきたら、自分は身を守るために戦うことができるだろうか。おそらく無理だろう。かつてはそれができたと思うが、今の自分は無理をしてしでも平和的解決を優先させる。例えば話し合いをする、相手に改善のチャンスを与える、もしくは衝突が起こりそうになったら自分が譲歩する。

こうした弱さがあって、自分はかつてセミナーを装った宗教勧誘を拒むことができなかった。威圧的に振る舞ったら何をされるか分からないという不安が、当時の自分を支配していた。

本当のことを言えば、どう立ち向かうべきかは分かっていた。また宗教やセミナーに救いを求めておらず、ある程度距離を置くことに関しては自覚があった。しかし少しの勇気、他人を跳ね除ける勇気が自分にはなかった。当時としてはこれ以上自分は何も失いたくないという思いから、人と対立することができなかった。

おそらく今でもその勇気がない。勇気を持って自分と異なる他者と向かい合うという勇気が未だに持てない。それは自分があまりにも無力だと知りすぎているからだ。自分は多くの人間の中でも臆病な部類に入る。

そのため他人と面と向かって戦える人間には本当に憧れる。自分を守ってくれそうだからではなく、対外的に強い人間でありたいという願望がそうさせる。自分にその勇気があれば人生はまた変わっていたのだろうかと思う。

自分の勇気は、知的コンプレックスゆえに消耗したといってよい。自分の本質がバカであるという自覚を必死に隠そうとして、自分の足に論理の枷をつけてしまった結果である。論理的に正しく妥当な主張ができなければ自分は間違っているのであり、自分は何を犠牲にしてでもその正当性の根拠を貫かなければならないと思っていた。

そのため、自分からすれば地球上に何十億と暮らしている人類が皆この困難な論理の修正と向き合い続けられる知能を有していることに驚きを隠せなかった。自分だけが躓いて、周りは皆平然と世界を生きていることで自分は更にコンプレックスを悪化させた。

対面ができなくなったのは、自分の周りの人間が皆高知能を有していて、自分が何を言おうと筋の通った反論を突きつけられるという思い込みが強かったからだ。そう思い必死で論理の整合性を会話の中で構築していたら、今度は逆にまったく論理がなく支離滅裂に近い会話をする人間と何度も遭遇するようになった。彼らは言葉を超えて感情的に繋がるできる人間たちであり、一見言葉が不明瞭でもある程度の合意が取れているのだった。

他者というものがますます分からなくなって、自分は更に会話をするのが怖くなった。そして以前よりも人と向き合う勇気がなくなり、自分の殻に閉じこもるようになった。

改めて本題と向かい合う。自分は自分の身を守ることができるのか。いうまでもなく、今の自分にはできない。それは他者と戦う覚悟が足りないからだ。

自分は他者を嫌うということ、期待を捨てるということ、関係を断絶するということ、つまりは他者を否定するということをあまりに恐れすぎている。善人でありたいと思い込みすぎている。そのため自分と関わる人間のほとんどが、自分に対して勝手な態度ばかりを示し、自分だけが無理な配慮を続けているという状態にある。そのため自分は他者からの要求を配慮で応えるほかにない。

自分は他者を否定し、断絶する勇気を持たなければならない。それは自身の失われた人生を思って過度に否定し、過度に拒絶する昨今の社会運動の如きものではない。今自分の人生を構築するために自分に不当な態度をする人間にはもう期待せず極力対立していくということだ。

時として自分が不快感を示すということは重要なことなのだ。なぜなら他者はいつも自分を察してくれるわけではないからだ。全体から見て正しいかどうかは分からないが、自分は自分に対して悪意の無い人間だけを身近に置くことにした。これが善意の人間と言わないのは、周りにイエスマンだけを置きたくないからだ。中立的な人間の厳しい態度が、時に自分に反省の機会を与える場合がある。

自分は悪意を感じたら自分を守るために戦う。悪意というのは、自分の弱みにつけ込んで陥れようとすることばかりではなく、礼節を弁えず自分を侵犯しようとするすべての意図をそのように見なす。

自分には勇気がない。だから誰かと直接戦うことは難しい。しかしともかく、自分を守るために自分を肯定することに対しては、何ら申し訳なく思わず堂々としているべきだ。自分の価値観、自分の判断が時に不当なものである場合もあるだろう。しかしその時自分はその可能性ではなく、なぜ自分がこの価値観、この判断を肯定したかという根拠を自覚するべきだ。その論拠が自分を守る勇気となり、仮に自分が間違っていたとしたら修正するためのヒントになる。当然そう簡単に割り切れないものも多くある。しかしいずれにせよ、まずは自分を守らないことには他者に立ち向かっていくことは難しい。