人生

やっていきましょう

1098日目

党派間の争いに対する率直な疑問は、個人の問題として処理できることを、わざわざ派閥の問題として槍玉に上げることがしばしばあるということである。

例えばある菜食主義者が肉食主義者に対して、普段から差別は悪いと言っている人間がこれほどまでに差別的な見方をしているとして批判を行ったことがある。あるいはどこかの若者がふざけたことをしでかしたら、どこかの老人がこれだから最近の若者はと訝しむことがある。黒人が犯罪を犯すとやはり黒人はという見方がされることがある。

いずれも悪いのはその行動を行った本人であるはずなのに、いつのまにか集団全体の問題にすり替えられている。

すべての肉食主義者がそうではなく、すべての若者、すべての黒人がそうではない。問題を起こした一部の人間がある属性を持っているために、同じ属性を持つ人間に対する偏見が類推されてしまう。

これは一見すると詭弁に聞こえる。自分がかつて大学時代、授業でジェンダー論について議論を行った時、自分は痴漢冤罪の問題について主張したが相手の女性に理解されなかったことがあった。今思うと、確かに相手からすれば詭弁のように聞こえたかもしれない。すべての男性がそうではない、したがって男性全体を攻撃するのは間違っているという言葉は、たとえそれが正しかったとしても、彼女たちのいつ誰に痴漢をされるか分からないという恐怖心を無視した発言だった。

しかし自分はそれでも、ある属性を持つからと言ってそれがそのまま党派全体がそうであるという見方を盲信したくはない。党派内にも微妙な差異があり、それゆえに内部分裂するグループも存在する。事はそう単純ではないのである。

自分は悪事を働いた人間をその人間がそうだったと割り切って考える。自分が完全にそうできるとは言えない。よく知らない属性には全体的な偏見を持ちやすいという傾向は自分の中にも存在する。

自分は幼い頃に反韓的な感情を抱いていた。韓国の反日感情や、整形を発端とする極度のルッキズムに嫌気が刺していた(当然ネットの情報にも振り回されていた)。しかしある時期からそうした感情が一切無くなった。日本人も整形するし、隣国同士がギスギスし合うのは歴史の常である。結局はどっちもどっちだと気づき集団間の対立に関心が無くなった。

あるいはapexでデュオがやって来ると毎回連携を取ろうとせず自分達の中で完結して、結局大した成績も残せずダウンを取られる最悪な連中だと考えたくなる時がある。しかしある時自分が知り合いとデュオを組んでやっていた時に、野良もまた勝手に1人でどこかに行って勝手に死ぬという場面に何度も遭遇した。結局これも協力的な人間がいる一方で非協力的な人間がいるという、どっちもどっちの問題であった。

どんな属性にも良い人間もいれば悪い人間もいる。たまたま自分がその属性を好んでいれば相手の良いところしか見えなくなり、嫌っていれば悪いところばかりが目につくようになる。

しかし一方で、何でも個人の問題に置き換えることができるとも思っていない。ある属性の集団が抱えている自明の前提が個人に影響を与えることもある。

そのため自分は基本的に個人を個人として捉えるが、その集団が持つ傾向もまた無視しないようにしている。例えば傾向の話をしている時に例外の話を持ち出すのはあまり適切であるとは言えない、問題は例外の存在ではなく、その傾向が評価として妥当かという点である。