人生

やっていきましょう

1128日目

記憶や学習することが難しくなった。能力的にもそうだが意欲が湧かない。以前よりも何かを学ぶ喜びが薄れてしまった。

一度の挫折で全てを投げ捨てる必要があったのかと後悔する時がある。あのまま諦めず頑張ることはできた。何か資格を取って人生を前に進めることもできた。環境を変えて新たな人生を始めることもできた。しかしそれを自分は選ばなかった。

2年前から生きる意欲が湧かない。どうせ何をやったところで無意味だという思いだけがある。半分は逃げ続けるための言い訳だと思う。しかしもう半分は、本当に希望がないのだろう。

自分は20代辺りから自分の関心を突き詰めて努力をしなければもったいないと焦り、必死になって自分が好きなもののために時間を費やそうと思っていたが、実際は自分のやりたいことは何もなかったのである。

自分の中に関心が何もなく、何のために生きているか分からないという本当の状態から目を背け、きっと自分にはやりたいことがある、そのために自分は生きなければならないという誤魔化しを信じようと頑張ってきた(そうした考えに至ったのは今は疎遠になった知人の影響でもあった)。しかしそうした陳腐な妄想ではいよいよ自分を騙しきれなくなり、全てに失望して何もできなくなってしまった。

厳密に言えばやりたいことというのは存在する。しかしここで言うやりたいことというのは、自分の能力を社会の中で活かし、自分は社会の中でどのような価値を提供できるか、ということである。自分は他者に対して既に失望し切っており、自分が社会の中で価値のある人間にはなれないと思っている。

自分の内面を注意深く見ると、自分は他者にとっての尊敬の対象になりたいという思いがあるらしい。他者にとっての理想でありたいと思うのは、自分が能力的な問題でそれが不可能であるという劣等感があるからであり、そのために自分の居場所がないと長年感じてきたからだ。

自分は多くの同類がそうしてきたように、他者よりも自分といえる世界観を持っていない。自分という存在があまりに希薄だからだ。そのことにも劣等感があった。自分が1つのゲーム創作を7年以上続けているのは、自分には自分があるのだということを証明したかったからかもしれない。しかしゲームは未だ完成していない。

つまり自分は、自分は他者にとっての理想になりたいという自分と、自分にとっての理想になりたいという自分の両方に失敗している。今の自分は自分でも他者でもなく、そこ存在しない何かであるように思う。

何も学ぶことができないのはそのためだ。意欲というのは自分の欲求に正直にならなければ芽生えてこない。今の自分は自他の存在いずれでもない虚無のために無意味に生きている。