人生

やっていきましょう

1140日目

ポリティカルコレクトネスの問題について少し考えていた。この種の影響を受けた作品は最近増えてきているが、その度に煩わしさを感じる。物の見方を強いられているような、作品の偏りを台無しにしているような、そういった不快感がある。

あまり詳しくは知らないが、ある特定の属性を持つ人間やグループが、それによる不利益を被らないように配慮するというのがこの考えの根本であると理解している。

確かにこの考え方は理解できる。人種や性別、思想や宗教で人間を差別することを手放しには肯定できない。そうした差別が特定の属性を持つ人間の不利益になり、それが結果として迫害に繋がることになるならば、属性を貶める表現は控えよう、様々な属性が多様に存在できる社会を肯定しようと考えて当然である。

問題はその実現のために作品から多様性を奪い、自由な見方を奪ってしまうことにある。一例を挙げるならば、ある属性の人間が、当然そこに存在しなければならないという偏った見方だ。かつて白人同士が群れていたグループに当然のようにアジア人やヒスパニック、黒人がいなければならないのか。確かに大学や大手企業といった、社会的に責任のある開かれた場所ならばそうなってもおかしくはないと思う。しかしすべての集団が開かれていて、画一的な多様性を有しているとは限らない。

創作においても同様で、多様性のあるコミュニティがあってもおかしくないが、多様性のない偏ったコミュニティがあってもおかしくはない。しかし少なくない作品からは、状況や背景を弁えず無理矢理多様性を確保しようとする圧を感じる。

この所構わず降りかかる圧というのが、作品に対する自分の自由な見方、楽しみ方を制限していると感じる。例えばapexはLGBTの政治的な正しさを追求しようとして同性愛者の恋愛事情をオープンに描こうとする。こうした属性を肯定しろと言わんばかりの演出には毎回うんざりする。そもそも自分は恋愛設定全般をFPSに求めておらず、差別する意図も異性愛を独善的に肯定する意図も無い。自分は撃ち合いにだけ関心があるのであり、そこに性差は関係ないはずである。

自分の考えを言うと、政治的な正しさとは自分の属性(それは確立されたものだけでなく曖昧なものも含める)を肯定しながら、他者の属性を否定せず尊重しようという控えめなものである。他者の属性を肯定しようという政治圧は個人の自由な楽しみ方を犠牲にし、自分のようにポリティカルな作品にうんざりするような人間を多く生み出すだけである。その反感こそかえって差別を助長するだけではないのか。

しかしこう考えるのは自分が日本人だからかもしれない。ポリティカルコレクトネスに対する過剰な情熱は元々海外発祥であり、日本とは異なる事情から生まれたものであるかもしれない。アメリカなどは様々な人種や思想が渦巻いており、他者属性を肯定ではなく否定しないという控えめな考えでは通用しない、根深い差別は是正されないという失望があったかもしれない。そうした海外の差別根絶を巡る感情を自分は知らない。

しかし自分はそのために自分の楽しみ方を制限されるつもりはない。自分の関心、自分の属性をまずは肯定しつつ、できるだけ異なる思想に対してオープンな否定はしないというスタンスを取り続ける。それが自分にできる配慮であり、政治的な正しさだと思う。

今までの自分だったら無理をして他者の都合に合わせていただろう。しかしそうした無理は精神的に不健全であり、かえって無理を強いた対象に憎しみを募らせるだけだと気づいた。だから自分は自分の快適さを守るために無理はしないし、圧力をかける他者から距離を取る。

ある属性が肯定されるにはどうすれば良いか。やはり自分が思うのは早急で覇権的な文化侵犯ではなく、地道な信頼確保であるように思う。自分の属性を肯定してもらおうとするターゲットの属性や文化圏をまずは否定せず、その中で自分が信頼できる人間であるというところを示す努力をする。相手が自分の属性に対して嫌悪を抱いていたとしても、自分が良い奴だと分かればその属性に対する全般的な嫌悪は改善されるかもしれない。