人生

やっていきましょう

1146日目

他人の表現を見ると反吐が出る。喉に異物が入ったような具合悪さがある。しかし表現に罪はない。他人の表現の異質性に耐えられない自分の弱さにある。

他人の表現に耐えられないのは、自分という人間があまりに脆弱なので他人の表現を自己に対する【侵犯】としか捉えられないからである。弱い人間は拒絶することでしか対象と関われない。拒絶している自分を肯定することで、その影響から身を守っているのである。

しかし強い人間というのは、この他者の異質性に対する耐性がある。異質なものを受け入れる余裕がある。異物が入ったところで自分は自分だとはっきりわかっているからだ。

自分はやせ我慢の人間だと自覚している。本当は他者の異質性に耐えられず、とにかく否定し尽したいという衝動が蠢いている。しかし敢えて、自分は異質な存在がそのままそうであって良いという自由を認めている。この自由を否定することはおそらく先にもないだろう。しかし自分は、同様に自分がそうであって良いという自由を認めていない。

自分はいつか狂うのではないかと思う。自由思想というのは自分と呼べる個人を持った人間に対しては有効であるように思う。当然自分は個人と呼べる存在に憧れを抱き、自由は肯定されるべきだと考えて生きている。しかし自己形成に失敗し、自我が霧のように不安定で曖昧な存在にとっては、自由というのはつらいものである。

自分は束縛や何らかの所属を求めているのだろうか?おそらく本来的にはそうだったのだろう。自己が希薄であるから、誰かの言いなりになっていたり集団の後を追随していた方が楽だった。

しかし自分は自分が個人であることを捨てきれなかった。自分という人間を証明しようとした。この半生は、自己不在と自己形成の葛藤の繰り返しであったと断言できる。どうにかして自分は自分であるとはっきりさせたかった。

その努力をしてきた数々の過去が、自分を安易な追随者、全体主義者にするのを妨げている。自分は今更、自分が存在しないことを受け入れられないのである。自分が希薄であることを受け入れられない。自分が個になり得ないことを受け入れられない。

だから自分には居場所がない。自由主義者のフリをしているが、自由を希求する自己がどこにもなく、かといってどこぞのコミュニティに自分を見出すこともできない。所属もできず、孤立もできない。自分はどこに行くのだろうか。