人生

やっていきましょう

1149日目

言葉の使い方を反省しなければならないと思う。最近セリフを考えるときに苦労することが多かった。単に奇をてらった語彙を増やせばいいという問題ではない。それが言葉として適切に伝わり、独自の面白さを表現できているかということが問題だ。

言葉の適切さといえば、適切な表現、そして適切な量である。以前中学か高校の学園祭でどこかのクラスの生徒がクラス発表の演劇で羅生門をやっていた。ただしその羅生門は原作の内容とは異なり、現代風にアレンジするとどうなるかという試みで行われた。

確かに面白いアイデアだとは思った。しかし演劇としては失敗だったと思う。女子生徒だったか、現代風の言葉遣いをしていながら所々古語が入り混じっていた。教科書の中のセリフをそのまま引っ張ってきて、それを現代的な表現に置き換えようとしたが、うまくいかず違和感のあるセリフになってしまっていた。また登場人物同士のやり取りが解説口調であり、かつ冗長的で違和感のあるものになってしまっていた。

これは自分が最初期に作ったゲームについてもそうだった。中学生の頃、RPGツクール2000を使って山月記を作ろうとした。何が酷かったかというと、本文の丸パクリに留まらず、自分独自の展開を付け加えてしまったことだ。それまでは李徴と袁傪のやり取りを本文から機械的に抜き出してセリフにしていたのだが、ゲームの展開上、どうしても小説のままではうまくいかないところがあった。

そのために当時の自分は展開を付け加えたのだが、パクリなりにも本文の機械的な引用から整合性が取れていたそれまでの展開に、急に稚拙で違和感のある中学生の会話文が現れて違和感があった。加えてただ本文を適当に流しているだけで、冗長で何が面白いのか分からないという作品だった(原作は面白かっただけに)。

この2つは適切さを欠いた作品の一例として自分の記憶の中に深く刻み込まれている。適切な量、適切な表現を行わなければ違和感のある表現になってしまうのである。これらを回避するためにはどうすればいいか。説明的な表現を極力カットし、理解の曖昧な表現は避けるということである。

説明的な表現をカットしていけば、残るのは人物同士のやり取りだけである。このやり取りに近ければ近いほど、互いの連想を自由に交錯させていくような実際の会話に近いものになる。ただし完全にそうなってはいけない。会話は無目的なものとなり、たちまちストーリーから脱線してしまう。重要なのは最低限ゲームの目的に沿ったものでなければならないということである。脱線したら引き戻すということ、あるいは、脱線自体がストーリーの本筋に繋がっているような会話であることだ。

理解の曖昧な表現は避けるということは、無理をして背伸びした表現をするよりは、自分が使い慣れた言葉遣いを選ぶということである。以前自分が良くやっていた失敗は、難解な語彙を意味もよく理解せず直感と印象で採用してしまっていたことだ。当時はその直感によって導きだされた一筋の流れにこそ価値があると思っていたが、今ではそうしたことをかなり後悔している。

言葉の意味を、意味も知らずに用いていたということは、理解力の浅さ、粗さを浮き彫りにする。自分は知能が低くこの調子で十数年生きてきたので、未だにその癖が抜け落ちないで困っている。自分が認識している世の中の数多くの物事について、自分は曖昧にざっくりとした輪郭を追えているだけである。明確な理解がそこにはなく、解像度が低い。それに気づかず無邪気に自分の直感で遊んでいた頃の自分が本当に見苦しい。

適切な理解の伴った言葉遣いを行うためには、自分が何をどこまで理解できていてどれを理解できていないか、ということに自覚的になるということである。幸いその反省を書き留める場所はここにある。かなり昔自分はそうしていたはずだったが、いつのまにかそれをやらなくなってしまっていた。

これから自分の言葉を見直し、改善していこうと思う。