人生

やっていきましょう

1177日目

ここ最近、自分が何かを語ることはおこがましいことなのではないかと考えるようになった。そのためにTwitterではほとんど文章を書かないし、ブログの告知も1000日を境にしなくなった。自分の頭の中の考えを吐く場所はここにしかない。

自分の言葉が恐ろしく感じてしまうのだった。自分の言葉は高校生までの前提知識ですべて語られている。だから賢いことを言えるわけでもなく、自分の意見らしい意見を言えるわけでもない。誤りだって含む余地は十分ある。そんな自分の言葉が聞くに値するものだとはもう信じられなくなってしまったのだった。

自分は自分の言葉を人に見せることが怖くなった。こんな不完全な言葉の塊に対して、誰かの役に立てるようなライフハックや具体的な知見でもない、きわめて個人的で抽象的で意味のない、スノッブ崩れの戯言を聞いて何になるのか。そう思うと人前で自分の言葉が書けなくなった。自分は世間的にみて異常者であり、異常者の言葉というものは見ていて不快に感じるのである。

以前自分のツイッターには、昔悪名で知られていたゲームユーザーがいた。彼はゲームの公式掲示板でずっと論争をしていて、その都度周りからバカにされるような人間だった。そんな彼の末期のツイッターは、アニメのなりきりアカウントになって統合失調症めいたつぶやきを延々と吐くだけだった。とにかく賢く見られようとして(そういうアニメのキャラクターだった)小中学生の知識をベースに支離滅裂な文章を延々と吐き出し続けていた。自分ははじめ我慢して見ていたが、投稿ペースが尋常ではなくなりさすがに我慢ができなくなって最後はミュートにした。その後スパムか何かの通報を受けたのか、凍結されてそのまま姿を消した。

程度の差こそあれ、あれはそのまま自分の姿なのだとその時実感した。自分が吐く不安というのは、ある程度筋が通っていると自覚している。しかしあれほどの熱量を延々と見せられると、こっちも具合が悪くなってくる。自分が虚構がどうだ、実存がどうだ、人生に意味がないだのと言っているとき、関心の無い人間にとっては目障りだろう。そう考えてから、自分はあまりツイートをしなくなった。

自分と似たような人間と繋がればよかったのかもしれないが、自分は自分のゲーム用アカウントでそれをつぶやいていた。はっきりいって、こんなものは誰も望んではいないのである。誰かが書き連ねた延々と続く不安よりも、今日はどこに旅行しただとか、どういうゲームで遊んだだとか、犬や猫の動画だとか、そういったものをタイムラインは求めている。誰もそうだとは言わないが、少なくとも自分はそのように感じる。

自分は他者との健全な関係に強い未練を感じていた。このまま不安の闇に落ちて正気を失っていくよりも、少なくとも正気を持った人間であると他人からは見てもらいたかった。だから自分はそうした毒素を抑える努力を行った。明らかにここ数年の自分のTwitterは不安を垂れ流していた頃の自分に比べて健全だと感じている。しかしそれは、自分のツイートを一切しないからなのである。自分の履歴にはおもしろツイートをリツイートしたものくらいしかない。

健全であることへの満足というか、安心がある。自分は最低限他人と分かり合えるという自負が、自分を生かし、自分に誇りを与える。しかし本当のことを言えば、もうほとんど他人と分かり合えないのである。この一歩の妥協ゆえに自分はかろうじて人間関係を維持できているが、自分の主たる関心である内面的な問題に対しては、ほとんど分かり合えないだろうと思う。なぜなら彼らは根が健全であり、自殺など考えようともしていないからだ。

こうした分かり合えなさが恐ろしくなって、知り合いにこうした話題を吹っ掛け続けるべきではない。7年ほど前の自分は自分の不安をすべて知り合いにぶつけていて、本当にどうしようもない人間だったと思う。しかし今の自分には次のことがわかっている。すなわち不安を誰かに吐いたところで、不安は一向に改善されないということである。ただ吐かれた側の苦労と、自分の一時しのぎの満足が生まれるだけで、長い目で見れば他者に負担を強いるだけの行為でしかない。

不安を改善する方法は、自分に制御不可能な問題に対しては思考(厳密には連想)をやめ、目の前の具体的な作業に集中することである。たとえばブログを書くとき、その出来や内容がどうであっても書いた後には不安が落ち着いていることが多い。Apexもイライラすることはあるが、少なくともApexで不安が収まらなかったということはほとんどない。ランニングをするのも効果がある。一旦作業をやめて、別の作業をするのも良いだろう。

自分は不安に対するいくつかの対処法を学習したことで、他人に吐く、長文のツイートにして流すという行為に走る必要がなくなった。無論それが自分にとって良いことだとは言えない。本来であれば自分は堂々と自分の考えをツイートすべきであり、誰かに遠慮することはないのである。しかし少なくともTPOをわきまえ、不安定な精神状態のときの自分に他人を巻き込ませないようにする上では、こうした配慮は十分意味のあることのように思う。