人生

やっていきましょう

1187日目

Apexをやめて以来不安になることが多くなった。今までどれほどの時間をあのゲームに費やしていたのだろうと思う。しかしそのために自分の不安が抑えられていたことは事実だ。今の自分は昔に戻ったようだ。

不安について考えるなら考えるだけ無駄だ。結局不安になったところで答えは出ないのだ。自分の幼少の頃から思っていた疑問がある。すなわち、この世は不確実で曖昧なことが多いのにどうして他の人間は正気でいられるのか、ということだ。例えば自分は社会不安と被害妄想の激しい人間だから、自分の言った言葉がいかようにでも解釈でき、こちらに不利なように働かせることができるという可能性に怯えている。そうした妄想を抜きにしても、自分がはたして本当に打倒な考えを有しているかということに関しては人一倍懐疑的になっている。こうした状況は何も自分だけに限らず、あらゆる人間に対して開かれているはずである。にもかかわらず、行き交う人間は誰一人として発狂した様子を見せず、日々の自身の行動を自明に受け入れている。

この問題について先日考えている人間を目にした。彼によれば多くの人はあらゆる未知の可能性について考えることはせず、自身の成功体験を参照しているにすぎないということだ。自身の経験を超えたあらゆる可能性について考慮しはじめると、対処すべき情報量がほとんど無限になり、頭がパンクするということである。

この意見には身に覚えがあった。つまり自分がよく思考停止に陥ってしまうのは、自分の経験に基づく妥当性への信頼が欠落しており、次に起こるかもしれない無限の可能性ばかりを考えてしまうからだ。それにより自分の脳の処理が追い付かなくなり、頻繁に頭がパンクするということである。

例えば挨拶ひとつにしてもパンクの原因になり得る。自分が他人に挨拶しようと考える時、形式的な挨拶をすべきなのか、砕けた挨拶をしてもいいのか分からなくなる時がある。こうした時、自分は他人に不快な思いをさせまいと失礼ではない表現をひたすら頭の中で検索し続ける。組み合わせの数々により表現は無限にあり、どの表現が最も妥当であるかが分からない。こんな時頭が真っ白になり何も言えなくなってしまう時がある。

かつての自分は、いったいなぜかくも多くの人間が、この無限の可能性について何ら混乱もせず、常にリラックスして対処していられるのだろうか、いったいそこに彼らはどのような明察な根拠を見出しているのだろうかと考えずにはいられなかった。

だがおそらく、彼らは何も考えていないのだろう。彼らは自身の挨拶が挨拶として成立した自身の経験を参照しているにすぎないのである。彼らが平気で身内同士で砕けた会話ができるのも、彼らの間で砕けた会話をしても関係が破たんしなかったという経験があるからである。あるいはそんな彼らが別の場所ではフォーマルな振舞いを見せるのも、人生のある時点であらゆる人間に砕けた会話をすると関係維持が困難であるということを学習したからだろう。

自分はこのことについてまったく理解できないわけではない。あまり自覚がないだけで、自分もまた多くの判断を経験に頼っている。例えば自分が朝食に毒が入っているかもしれないから食べないという馬鹿げた妄想に屈しないのは、それが論理的にあり得ないからではなく、何も考えずに家の飯を食べても何ともなかったという経験を20年以上蓄積しているからである。

経験の中で得た妥当さは、ある一定の条件の下で成立したというだけのことにすぎない。したがって異なる条件下で再現に失敗した時、経験に依存してきた人間にはどうしたらいいかわからなくなるという欠点がある(少なくとも経験に頼らない思考を持つ人間にとっては、多少なりとも彼らと比べれば自己修正や調整が容易であろう)。経験は万能ではない。しかし少なくとも、あらゆる問題が自明ではないためにオーバーヒートを頻繁に起こしているような自分にとっては、この自己の経験に基づく自明さへの信頼を何としても得る必要があるように思うのである。

このブログではもはや何度となく繰り返し述べて来たことだが、自分の不安の根源は明らかな経験不足である。自己の経験という指標を持たず、多くの情報を処理できるだけの知能も持たず、無限に等しい可能性を処理しようとしているから頭がパンクする。そうではなく、自分はまず自身の経験から成功の道筋を定めるところから始めるべきなのだ。頭を使えば解ける問題ではなく、自分の中では無限の処理を必要とする不確実な問題に対して、実際に行うというアプローチを試みる。そこで得た経験に基づき自分の中で判断を蓄積する。その経験が自分を不安から遠ざけ、確かな自信を生み出すだろうと思う。