人生

やっていきましょう

1191日目

ある音楽家の曲をyoutubeで発見した。以来ずっと聞くようになって、今ではお気に入りのひとつになっている。彼の音楽について思ったところを書く。

この作曲家の特筆すべき特徴は、何の曲であれとにかく盛り上がりの序盤が完璧であるというところである。今まで聞いてきた多くの曲の中でもトップクラスの出来だと個人的には思う。メロディが自分の心にダイレクトに突き刺さる。感動というよりは、音楽のかっこよさを感じる。

しかしこの作曲家の作る音楽は、盛り上がりの冒頭以降メロディが途端に複雑になる。疾走感を維持しながら暴走が始まるので、突然着地点が見えなくなる。

まるでスポーツカーがまっすぐな道を時速300kmで駆け出したかと思えば、カーブで横転しそのまま転がり続けるというような感じである。まさしくそうとしか言えないのである。

これがこの作曲家の第二の特徴である。更なる疾走感を求めようとして方向感覚を見失う。見失って尚も減速せず、あらゆる方向にぶつかっては横転する。この粗さによって自分は完全の世界から現実に引き戻され、心の平静さを取り戻す。初め自分はこの粗さゆえに生じる中断が苦手だったが、今では別の印象を抱くようになっている。

自分はこの暴走と横転に、それまでのスタイルを破壊して新たな領域に至ろうとする意志を感じる。その試みにはおそらく失敗しているが、お高くとまって心地よい音楽だけを保持しようとせず、聞きやすさを崩してでも新たな領域を開拓している姿勢には尊敬できる。

自分はというと、そうした自己破壊の創造ができずにいる。確かにゲーム製作を始めた7年前辺りには自分は革新的な部類の人間だった。とにかくプレイヤーを驚かせる作品が作りたくて、そのためにゲームやストーリーのお約束をぶち壊そうとしていた。

しかし今だから思うのだが、あれは一種の無知に基づく傲慢さゆえにただ暴走していただけではないのか。自分は創作というものを100%分かっているつもりで、自分は何も分かっていなかった。自分には革新的なゲームが作れるという確信だけがあったが、それは「何も知らない自分にとって」革新的であるにすぎなかった。

ゲーム作りが難航し三度も全体のストーリーを書きなおしたことでようやく理解した。自分には創作の才能がないということを。それ以来革新的であることが怖くなり、なんらかの型を参考に自己流の表現を細々とやるといった程度のことしかできなくなった。

こうした自分にとって、自分のスタイルを壊すということは恐怖でしかないのである。自分の型が定まっていないうちに自分を壊してしまうと、精神不安が激しかった当時のように、自分が霧のように消えてなくなってしまうのではないかと思う。

しかしこの作曲家の音楽からは、そうした自己崩壊の不安というものを感じさせない。躊躇うことなくアクセルを踏み、自分をぶち壊し、道路に目掛けて勢いよくスリップする。もう熟年に差し掛かる年齢である。それなのに自分を平気で破壊して行ける。

こうした芸当ができるのは、既にこの人が自分のスタイルというものを確立しているからである。確立しているからこそ対象として認識でき、自分を壊していける。

自分は精神的に折れてなお、創造や独創性への憧れというものを潰し切れないでいる。ほとんど諦めかけているが、こうした作品に触れることで昔を思い出すのである。その度に今更やったところでという思いと、もう一度やってみたいという思いが入り混じる。