人生

やっていきましょう

1195日目

創作する人間は自分の好きなものを表現する。当たり前のことかもしれないが、やはり自分にとっては違和感がある。

ある種の人間は自分の好きなものに全面の信頼を寄せている。それが(自分にとって)至上のものであり、追求こそが生きる喜びであると思い込んでいる。こうした偏愛が作品に生命感をもたらし、名作が生まれる土壌となる、とよく言われる。

この意味で自分は表現者として不適合だと思う。自分には自分が表現したいほどに愛する対象がない。

正確に言えばかつては存在した。小学生の頃、自分は空想に導かれるままに日夜ノートにギャグ漫画を描き続けた。少なくとも当時はそれを本気で面白いと思っていた。しかしある時から疑念が生まれ、自分の中でその偏愛を肯定することに耐えられなくなり、自分は空想をやめてしまった。

以来自分の人生とは自己否定の連続であり、自分の好きなものを愛するのではなく、自分の嫌いなもの、苦手なものを克服しなければならないという人生観が確立された。自分の劣等感と精神不安を克服するために理不尽な重荷を自らに課すという狂気の時代だった。しかしそれも末期には通用しなくなり、結局自分は初めから社会的に価値のないチンピラだったという自覚を得て、間もなく挫折した。

自分は自己否定を突きつめた先に生きている。だから偏愛を糧に今でも生きていられる人種のことが全く理解できない。かつて自分もそうだったはずなのだが、今の自分には自分の関心を肯定する理由がひとつもない。自分が存在しないのだから当然である。だから表現者として不適合だと考えるのである。

そんな自分が7年もゲーム開発に取り組んでいるのは正気ではないと思う。なぜ未だに投げ捨てず、死んだプロジェクトの後始末をしているのか。そこには喜びもなければ野心もない。失ったものを取り戻そうという狙いも、今更やめるのはもったいないという思いもない。ただ空虚な義務感だけがそこにある。

おそらく、この不完全な廃棄物が自分を知る唯一の手がかりになるからだろう。自分は偏愛という動機からではなく、度重なる否定の末に拡散した自己同一性を修復する試みとして、創作活動を行っているように見える。

こうした自己と向き合わなければならない時間が、社会的成功や希死念慮以上に自分の中で優先されるものになっている。だから創作は続けているし、次第に他者への期待や承認欲求はなくなり、自殺についてはあまり考えなくなった。