人生

やっていきましょう

1202日目

憎まれっ子世に憚るという。悪人は善人よりも世渡りが上手いとされている。なぜ善人は悪人よりも泣きを見るのか。そこには善の弱さ、悪の強さがある。

義を見てせざるは勇無きなりという言葉がある。これは多くの善人にとっての課題ではないかと思う。おそらく善人とは大抵の場合、悪を成したくないという消極的な善の持ち主であって、信念に基づいて善を成したいという意欲があるわけではない。つまりは臆病者である。

自分は善人の部類だと自認しているが、その経験から言えば自分は自分の行動によって他者が変容してしまうことを恐れているように思う。他者は他者のままであるべきで、自分がその領域に立ち入って何らかのノイズをもたらすべきではないと思っている。自分の身勝手さから他者に拒絶された過去が、自分をそうさせている。

しかし悪人とは、こうした他者に対する影響というものへの葛藤を悠々と乗り換える。欲望を叶えるためなら、他者にどう思われようとも構わないでいる。自分に率直であるために信念を持ちやすい。その原動力が本人の強い願望であるから尚更である。

おそらくこういうことかもしれない。世の中には自己中心性が強い人間と弱い人間がいる。強い人間はその有り余る欲望ゆえに積極的な悪に流されやすく、弱い人間は欲望を恐れるか、そもそも欲望が薄いゆえに消極的な善に走りやすい。

自分が消極的な善人であるというのは、そのまま自己の希薄さ、欲求の矮小さを明らかにしているように見える。しかし自分はいつだってこんなはずではなかったと思っているのである。自分の消極さに満足できず、欲望がないというよりは抑え込んでいる。

ようするに自分は自分を生きていないのである。これもある種消極的な善人の典型かもしれない。何らかの戦いに敗れ、自分のアイデンティティを守るだけの力を失ったために、自分の意欲を投げ捨て不貞腐れて引きこもっている。自分の人生はどこへ行っても圧倒的な力を持つ外部の存在の影響の下にあった。その過程で自分は自分を殺し、他者を憎悪し、意欲することを捨てた。しかしそれは、やはり不本意なものであった。

自分が悪人に惹かれるのは、その俗悪かつ不当な価値観からではなく、自分の意欲や信念のために戦うことを当然に思っているからだ。自分の意欲を巡り他者とぶつかっていこうとする姿には、逃げることしか知らない自分にはない勇気がある。しかもその勇気には、積極的な善を標榜する人間にはない図太い欲求というリアリティがある。

思えば自分は今まで他人と戦ってこなかった。これまでずっと妥協や譲歩や我慢を自分に強いてきたが、何でも喧嘩で解決できればどれほど楽かと思わなかったことはない。対立のすべてを肯定するわけではないが、自分が失敗したのは自分の意欲を否定する力が人よりも強く、それだけ葛藤に振り回されやすいからであり、もう少し自分に従った生き方をしてもいいのではないか。