人生

やっていきましょう

1219日目

自分の現状は最悪で、どうにもならない過去とどうしようもない将来に頭を悩ませる他にない。その中でどうにかなってほしいという期待が僅かにでもあれば、それが困難であるということが余計に自覚される。

自分は今不安定な状態にある。こうした状態に対する解決はもはや当たり前のようにこなせている。精神の不安定は悪い考えの連想による。したがって連想を止めることが不安定の解決につながる。連想を止める最も効果的な術は眼前の課題に対する作業であると経験的に理解している。そのため何かしらの課題を自分に与える。課題に対する取り組みを躊躇わせる感情を否定する。行動によって感情に変化をもたらしうるということを自分は知っている。

ある時期から自分の内面に巣食う不安というものは、機械的な対処によって減退させることのできる要素のひとつでしかなくなった。もちろん現状の自分がそうであるように、それが即時的に行われるものではないにしても、ある程度対処可能な要素であるということを理解している。

かつて自分の不安というものは、自分の内面世界そのものだった。不安が生じた時に抱く焦燥と絶望という感情が、自分と分かちがたくその場に存在していた。しかしそれが自分の内面に生じている「不安」という具体的な症状であると認識できてから、不安は自然界に生じる現象同様、ある程度調整可能なものだということを理解した。

自分は不安というものを対象化し、自分と切り離すことで安心を得ているにすぎない。この点でかつて災害を神の怒り、悪魔のいたずらと称した宣教師、もしくは不安を自分の課題として捉えられない他責思考の人間と大して変わらない。結局ところ、どのような対象として不安を取り除くのか、ということの違いでしかない。

自分は以下の2つの認識で不安を対象化することに成功した。第一に自身の内面は自らの解釈の反映でしかないということ。第二に解釈の正当性を支えるものは何ひとつ存在しないということである。自分の人生が最悪であると考えているとき、人は自らの人生に対して最悪という解釈を与えているにすぎない。当然そこには根拠がある。最悪だと思うに至った最悪の人生である。しかしその最悪の人生とは、最悪だという解釈を自身に引き出させる、単なる出来事の集合でしかない。

自分はその時に生じた解釈を否定するつもりはない。解釈を否定したところで、それは否定という名の新たな解釈でしかない。そうではなく、自分が解釈しているという事実に目を向けよと言い聞かせている。不安を抱いていれば、不安を否定するのではなく自分は今不安を抱いていると認識すること。そうすれば自分の内面の問題は、真に納得できる解釈の絶え間ない模索にではなく、状態や環境の修正にあると理解できる。

外的要因の修正にのみ目を向け、自身の内面から湧き出る解釈には判断停止せよ、という経験則を自明なものとして捉える傾向には多少の懸念はある。自分が創作と向き合うとき、こうした機械的な動機による解釈の停止は自分が得意としていた連想を著しく阻害する。

しかし自分はそれでも、解釈を停止し機械的な判断のみを下すという思考法を採用することは有効であると考える。連想はイマジネーションの推進力となるものだが、その方向性と対象を決定し、目的を与えることを得意とはしていない。また連想は反芻するものであり、何らかの連想はしばしば堂々巡りを引き起こす。したがって容易に不安の渦に飲まれやすく、飲まれた後には容易に抜け出せないという状態に陥りやすい。

ここから抜け出すためには、自分の現在位置を把握し、目的となるゴールを定め、そこに至るためにはどうすれば良いかと思案する必要がある。そうした思考は連想からはほとんど引き出せない。合理的な思考によってのみ自分は自分を制御することができる。

連想と判断。自分はそれらを使い分けるということが重要だと考える。すべてを連想と解釈に身を委ねるのでも、すべてを機械的な判断に委ねるのでもなく、それらが有効だと思えるケースに各々を発揮させるという発想が必要だ。不安が生じたら機械的に対処する、創作の上では自由に連想させる、そう考えれば、自分は自身の内面とうまくつきあっていけるような気がする。