人生

やっていきましょう

1226日目

もし自分が優秀な人間で成果を多く残してきた人間であったならば、あるいは挫折を知らず今でも前線で戦えている人間、多くの人間の期待を背負って生きるような人間であったとしたら、自分は間違いなく自分の積み上げてきた人生に誇りを持ち、自分を鼓舞する言葉に感銘を覚え、そのいずれをも自分を肯定する糧としただろう。人は体験に束縛される生き物ならば、成功者は成功体験に、落伍者はその無様な経験に縛られて生きることになる。

これは自分にも当てはまる。自分はそこまで優秀でもなく、むしろ致命的な欠陥を持った人間である。自分の人生はそうした弱さを克服するためのものだったが、結局それが不可能であるという事実を見せつけられて、生きる意味を失った。克服の旅路は困難であり、短い間に僅かばかりの夢を見ることができたが、ついにその夢は叶うことがなかった。

そうした人間は多くはないが少なくもない。大抵がひねくれた負け犬となり、世を斜めにとらえて冷笑するのが常である。そうすることでしか無能である自分とそうでない人間たちとの間に折り合いをつけられないからである。劣等感がもはや修復不可能なほど内面に根差しており、まっすぐな人間を見るとバカにしたくなる。そうした性格の歪みをふとしたことで自覚すると、自分はどうしようもない人間だと思ってしまう。

ところで自分の特異な点として、そうした負け犬としての自分にどっぷり浸かれるほどの自分すらも持ち合わせていないという問題がある。そうした傾向がなかったわけでもないが、自分は悲観主義に陥るよりも先に不条理主義というべき意味のはく奪に陥ったのである。このまったくの無意味を目の当たりにした自分は精神異常者のように開眼し、その驚くべき異邦感覚の中で自分の正気を再び確立せねばならないと必死になっていた(この試みはおそらく成功した。あのまま異質な世界に飲まれていたら、本当に正気を失っていたと思う)。

こうした異常に陥った原因は自分の半生にある。自分の人生は自分の意志や欲求を抑え、外部からの要請に機械的に応えることが大半だった。それは何等かの個人的な信条に基づくものではなく、内外の異質で適応的でない環境に対して適応しようと努めた結果である。つまりまず先に環境の都合があって、その型に自分を無心にはめようとしてきたのである。

こうした人間はからっぽである。もちろん自分を振り返れば自分の好みがあり、こだわりというものが見えてくる(そうでなければApexでランパートを使い続けたりなどしないし、ゲーム作りなど7年も続けたりはしない)。自分が言いたいのは、そうであったにせよ、自分と呼べる存在がそこに「在る」ということへの信頼が全く得られなかったということである。何をしても自分の感情の満足につながらないのである。何かを成功しても、それはたまたま成功したという事実があるだけであって、その現象の事実と自分とを結びつけるものが存在しない。そのことが自分を自明性の喪失へと導いたのである。

意味と呼べるものは、意味を味わう主体がいて、彼がそこから引き出した解釈を自分自身に関連付けることによってはじめて成立する。自分にはその主体が存在するという信頼が欠落しており、そこからいくら想像豊な解釈が導かれたとしても、まったく自分と結びつかないのだから存在しないも同義である。だから自分は、自分の人生からいかなる解釈も導きだせないのである。

ひとつの好例がある。かつて自分は努力根性主義という神話に酔っていた。つまり今ある最悪の事態はすべて自分の怠惰によるものであり、したがって試行錯誤とチャレンジを繰り返せばきっと人生は好転するという信念を信じていた。これはある意味で正しい。何等かの問題を解決すれば困難は弱化する。しかし問題は、この神話が自分の信仰によって得られたものではないということだ。何等かの問題があって危機感を覚えた自分が、どうにかしなければとパニックになりながら思いつかされた妄想である。自分は迫りくる危機に対して覚悟を決めて立ち向かったのではなく、混乱と不安に振り回されてその状況において適当な解を出力したにすぎない。自分の人生はまさにその繰り返しであった。

つまり自分は、自分と呼べる存在を養ってこなかった。その結果として、自分は外圧に対する避難場所にもなりえず、自分の意思決定を行うブレーンにもなれなかった。ただ追従によって責任を果たそうとしたが、意思によって責任を果たすということをしてこなかった。どうにかしたいという思いだけが渦巻いていたが、それをわが物とする術を知らなかった。

自分の人生は受け身の適応が主であったのであり、それを否定したとしても、主体的感情の貧困という不都合な事実があるばかりである。このような状況の中で、自分はいかにして自己を確立できるかということを散々悩んできた。しかし未だにその答えは見いだせない。

数年前までは自分はその不安を社会的承認によって解決できると期待していた。しかし人生のネタバレが多く渦巻くインターネットの中で、そうした承認欲求に突き動かされた人間がどうなるかを知ることになった。承認されたいという欲はマイナスをゼロに戻したい自分にとっては強い誘惑となるが、そうした欲は尽きることがなく、いずれその暴走した欲が自分の身を破滅することになる。

結局のところ、自分が在るという信頼を取り戻せるまで自分の存在を養うほかにない。それはまったくの無意味を経験した自分にとっては茶番にも等しいものであり、あまりにも周回遅れで初歩的なことだが、今からでも自分の主体を回復させようと思うことが重要であると思う。それは自殺をしないと決断した自分に課せられた宿命である。この異邦な世界の中で自分が生きようとするならば、生きる者のしきたり、すなわち意味や解釈への信仰というものとうまくつきあっていく必要がある。