人生

やっていきましょう

1235日目

仮想と現実を比較した時、言うまでもなく現実が至上のものであるとする考え方に反対している人がいた。仮想に価値を置く人間が現実主義者たちによって低く見られることを自明とする風潮に一石を投じていたようである。

自分はどうだろうかと考えた。自分は明らかに現実主義寄りの人間であり、仮想の中のいかなる表現に対しても冷笑的である。だが自分は現実至上主義者ではない。我々が現実と呼ぶそれは多くの虚構を含んでいるという点で仮想と大して変わらない。その点で自分は現実に対しても冷ややかな目で見ている。

しかし自分の前提はやはり現実なのだと感じる。自分の底なしの劣等感は、この現実における自らの地位がどうしようもなく低いことに由来している。こんなはずではないと思いながらも、もとよりそれが相応だったのだとも思う。いずれにせよ、この苦悩は現実に対する強い執着から来るのであり、その呪いは仮想によって解決できるものではない。

仮想世界に没入し現実を否定するという勇気が自分にはなかった。同様に、仮想や理想に対する絶対的な信頼も自分には持ち得なかった。自分には仮想主義者の持つ心の純粋さが欠けている。

自分は何人かの芸術気質の人間と関わってきたがいずれとも話が合わなかった。彼らは純粋であり、表現を信じており、自分が良いと思ったものを素直に肯定できる(あるいは肯定しようとしている)。自分は違う。そうした純粋さは茶番なのだと指摘なければならない思いに駆られているのである。なぜなら自分には、虚構は茶番であるとしか言いようがないからだ。

こうした自分が長年創作をして、誰よりも長く仮想に埋没しているというのは何の皮肉か。明らかに虚構の否定を動機としていながら、無能の冷笑を克服するという茶番の演者になろうとしている。