人生

やっていきましょう

1236日目

美学や思想を語る哲学的な物言いは時として難解で複雑な表現になる。自分はこうした表現を好んでいるが、それらが嫌われる理由も分かる。禅問答のように抽象的なテーマを問いかけ、純文学のように曖昧な表現で答える様は単なるレトリックの晦渋のように映る。しかしこうした表現からでしか言及できず、摂取できない成分がある。その表現の微妙なバランス感覚を、要はこういうことだろうとか、矛盾していて支離滅裂だとか言い切ることが自分にできないのは、自分がずっとそちら側の人間だったからだろうか。

自分には哲学的な表現を好む自分と嫌う自分がいる。自分の少年期はこの言葉の凄みに囚われたところから始まったが、10代後半で表現はわかりやすく、意図を明確なものにしなければならないと思い始めた。それはこうした曖昧な物言いが論理の飛躍と連想にブーストをかけて表現される、いわば芸術作品に近いものだと暗に理解していたからだ。

自分は3年前まで連想と思考の区別がついていなかった。人文的な連想のロジックと、具体性の欠如が死を招く科学の側のロジックとではまるで違う。具体的な施策について考えなければならない時に連想に浸っていてはそれはただの思いつきになるし、芸術作品を前にして写真の方が再現性に富んでいるとか、虚業を論い作家の非生産性を指摘するのは野暮というものである。

人は自分の前提がすべてだと思いがちになる。時に優れたアーティストが政治的に過激になったり、論理的思考能力の高い人間が芸術を解さなかったりするのは、彼らが自らの前提を正しいと思っているからである。実際それらの前提は、ある一面を言及するのにはおそらく適しているだろうし、また言及は一様ではなく範囲や限界に差があるだろう。重要なのはそれらが違うと認識し、この場でその前提をもって安易に語るべきかを一旦考えることである。

自分は論理の飛躍やアクセルを踏んだ連想が現実世界では極めて危ういものであるということをよく理解している。インフルエンサーの雑語りが支持される昨今にあっては、連想には抽象という凄みを持って自らの言及を権威づけし聴衆を平伏させる力があることを認めなければならない。しかし具体的な課題を解決し、目の前の問題を改善すること、あるいは事実を事実のままとして表現、再現することは連想には向いていないのである。