人生

やっていきましょう

1238日目

これまで人文学に意味があるかということを考えていた。自分は大学で文学を学んできたが、こんなことが何の役に立つのかという問いと常に向き合わなければならなかった。今思えば相当な勘違いをしていたのだが、当時は自分が学ぶ意義というものを社会に提示する必要に駆られていた。特にそれは就活を意識してのことであったから、自分は人文学の市場価値とは何かということを模索していた。

結論から言えば人文学に直接的な市場価値はない。学んできたことがそのまま生かせる分野ではない。なぜならば人文学とは解釈の学問だからである。

人文学というのは基本的にテクストを読み、それらを解釈するというところから始まる。つまりここで学んでいる人間は解釈するという経験を積んできたということになる。だがはたして解釈とは能力として評価できるものなのか。解釈を積んだという経験は、ある分野の特定の資格を有しているというほどの説得力を持たない。

当然である。解釈とは自由なものである。そしてその解釈とは定量的に判断できるものではない。表現者のロジックと労働者のロジックは異なる。前者は逸脱を肯定するが、後者がそれでは成り立たない。

したがって人文学を学んできた人間が社会に適応するためには、人文学とは別のロジックで動いている社会人像を身に着ける必要がある。しかしそれがなかなかできないので、人文屋といえば文無しか無職と相場が決まっている。

誰かが言っていたが、人文学の人間は既存の解釈を疑う傾向にある。社会全体では良しとされていることを、どうしてそれが良しとされなければならないのか、ということに疑念を抱かずにはいられなくなるという。人文学の畑にいる人間が必ずしもそうであるとは限らないだろうが、傾向としては自分もそう思う。人間をどのように評価できるか、どのような評価をすれば優秀な人材が多く採用できるかという問いに答えはない。だがいつまでもその問を考え続けている暇はない。企業は常に人材を取り入れ続けなければ生きていけないからだ。そうした現実と折り合いをつける中で生まれた妥協の評価軸に対して、改めてわざわざその評価に疑念を差し込まずにはいられないというのが人文屋である。

人事採用だけではない。あらゆる慣例、あらゆる前提にたいしてなぜといわずにはいられない。こうした人間は企業にとって都合が悪い。企業だけではない。人付き合いも悪くなる一方だし、こうした人間は極力関わりたくない存在になる。

自分自身もそうした価値を疑う解釈を続けていたが、その果てに自分はあらゆる価値を信じられなくなるという狂気に堕ちた。自分がどこに向かうべきか、どこに向かっているのかわからなくなった。今でもその恐怖におびえている。

こうしたことに真剣に悩み、果ては自殺するような人間よりも、与えられた課題をちゃんとこなし、その報酬によって得られる満足にリアリティを覚え、日々成長することができる人間の方がよほど価値がある。なぜなら彼らは実存に対する解釈を停止しているからだ。

自分の社会的劣位を不当に思うべきではない。そうなることが嫌であればより社会に評価される人材になるべく学位を積むべきだったからだ。そうした想像力もなく自分が文学部に入り、入学してからその危機感を覚えても転部しなかったというのは自分の甘さではないのか。

しかし自分は自分という人間が文学の人間であるということを今でも確信している。これは自分のセンスに対する信頼などというものではなく、自分の適性が最も高い分野がここであったという話である。自分は元より社交家ではない。メンタル耐性もなく度量もない。何より人と会話することができない。そんな自分が文章ならば自分を殺さずに済んでいる。したがって今の境遇はなるべくしてなったと言えるだろう。