人生

やっていきましょう

1243日目

小学生の頃に映画の予告のかっこよさに憧れて自分の漫画で再現しようとしたことがある。はじめは描いていて楽しかったが、段々と奇妙な違和感を覚えはじめ、ついには自分が描いているものが何なのか分からなくなり、怖くなってやめてしまった。今でもそのトラウマは残っている。

Twitterの冷笑オタクの間で映画の予告をそのまま文章上に表し、中身を恣意的に改竄することで面白いツイートを生み出すというネタが一時期流行っていた。それを見た時にも自分は奇妙な不安を抱いた。予告というものの統合性の無さが自分には恐ろしいのである。

映画のトレーラーの内容をよく注目してみると、そこには何ら必然性のないことが分かる。切り貼りされたワンシーンの連続に、見る者を惹きつけるような大音響と予告が入る。確かにそれらは予告として成立しているが、一貫性には欠けている。

それらのシーンが切り貼りされる理屈はよく分かる。宣伝という目的のために、映画全体の中から特に印象的なシーンをピックアップして、沢山の人にその先の展開を見たいと思わせるということである。しかしそれらの連続が、注視すればするほど破綻していることが分かり、なんとも言えない不安を覚えるのである。

予告自体もそうだがその作り手はもっと恐しい。作り手ならば尚更この破綻を無視できないはずである。彼らの頭の中でいかなる正当化がなされているのか。なぜその破綻を前にして平気でいられるのか。考えれば考えるほど分からなくなってくる。

思うに宣伝とは必ずしも合理的な筋道を辿る必要はない。イメージの連想を誘発させるならばその宣伝は問題なく成立する。おそらく作り手はそのことだけを考えている。そして受け手は宣伝を見ることによって誘発させるイメージを受け、様々な印象を勝手に覚える。

それでは駄目だと感じるところに自身の歪みがある。