人生

やっていきましょう

1248日目

ワールドカップが始まり、日本の試合に限らず様々な国の試合を見て楽しんでいる。元からサッカーは好きだったが、こうした大きな大会でもないとあまり見る機会がない。

サッカーを見ていると様々な反応を目にする。主流は日本を一丸となって応援する層だが、Twitterを見れば意外にも日本が負けることを願っている者もいる。普段サッカーなど見ない人間がワールドカップになると盛り上がってお祭り騒ぎをする人間を冷笑する者もいる。元からサッカーに興味のない人間が、世間の盛り上がりを迷惑そうにもしている。

自分はというと、日本代表を応援することに躊躇いがない人間だが、サッカーというとどうしても『最強伝説黒沢』の冒頭を思い出すほどにはインターネットの人間である。サッカーの勝ち負けや試合の展開は、究極的には自分の人生とは関係がない。日本という看板を背負って同じ国の代表が戦うことに、自分は愛国心も同胞心も揺さぶられない。彼らが勝つことで自分の人生が好転するわけでもない。ただ他人の人生を見て盛り上がるだけである。

こうした気づきから自分の人生を取り戻そうとする(そしてそれが理解されず空回りする)のが黒沢だが、自分もやはり同等の気づきから目を背けることができない。結局自分は自分の人生を生きていないという事実から目を背けるために、他所の誰かの英雄譚を見て満足しているだけではないのか。

ただ自分には、サッカーに対する嫌悪の念が存在しないという奇妙な事実がある。自分の人生から言ってサッカーで盛り上がる層とは文化が違うし、むしろ自分など、学生時代にサッカー部に散々煮湯を飲まされ続け、劣等感や憎しみを抱いているくらいが相応である。しかし自分にはその経験がない。

自分の人生の出来事ではないサッカーに対する違和感と冷笑、しかし一方でサッカーを純粋に楽しんでいる自分、この2つが自分の中で混在し、互いに反発せずに奇妙に同居しているのは奇妙なことだ。

この不可思議な精神状態を正当化しているのは、おそらく次の事情による。すなわち、もはや自分にとって自明性の喪失、異邦の感覚、いずれにも所属を見出せないという状態は自明であり、それを殊更に冷笑する意味は既に失っている。かたや自分がサッカーを楽しんでいるという事実に対して、あれこれ理屈をつけて否定する動機がないので、自身の感情はまるで幼少の頃のように自由に野放しにされている。

つまり、自分は自分の人生に投げやりになったことで、自分の精神における異邦感覚を受け入れ、昼休みに校庭を駆けていた頃のサッカー少年に戻っているというわけである。しかしこの過去の感情にはリアリティがなく、自分のことのようには思えない。黒沢の気づきも同様である。だからいずれも所詮は他人事として自分の中で同居しているのではないか。