人生

やっていきましょう

1249日目

共感が前提として描かれている作品を自分は苦手とする。自分が不満に思っていることへの愚痴や、自分の嫌いな人物組織に抱いている悪意を、表現という形を模して擬態している自己主張の投影を自分は基本的に信用していない。

例えば何かの出来事に対して、本質を突くような感じのセリフを吐いて、周りがおぉっとなるシーンを描く作品がある。こうした場面を見ると、わざわざ聴衆やカメラワークの力を借りずに自分はこう考えると言えばいいだろうと思ってしまう。結局こうした作品は誇張された自己主張以外の何者でもない。

しかし最近思うのは、確かにこれも表現の一種なのではないかということである。自分は面白いか面白くないかという主観の軸でしか作品を見ていないから自己正当化の欲望が透けて見える作品はつまらないと考えるが、一歩離れて眺めてみれば、自己正当化という強力な動機によってある特異な視点が描かれ得るという可能性をこれらの作品は示していることがわかる。

ある古代の文化が自身の世界観を神話という形で表現しているとする。当然これらの作品は支離滅裂で誇張されたものであるという指摘はできる。そこに不快感を見いだすこともできる。しかしそうした作品はそうした作品としてなぜか自分は受け入れている。