人生

やっていきましょう

1250日目

笑いの面白さを競い合う文化が日本に存在するという事実を好奇の目で見ている。自分がこれまで笑いと向き合っていながら、その存在に気づかなかったことは迂闊だった。

今この瞬間、笑いを取るために何ができるかを考えている老若男女が自身の笑いをかけて戦っている。その事実が面白い。お互いが潰しあって、最後のひとりになるまで殴り合う。勝敗は審査員が決める。彼らの琴線に触れた芸人が勝つというわけだ。

戦いの勝者にはオファーが殺到し、彼らが次の時代の流行となる。彼らが有象無象を殺して頂点に立ったという事実がその信頼となる。

だが自分はむしろ、その過程で敗れていった無数の敗者の方に興味がある。本戦に出場した大勢の芸人は多様な笑いを抱えて消えていった。そしてその死体の山の下には、本戦出場すら叶わなかった、どうしようもない笑いが無尽蔵に埋もれている。

どうしようもない笑い、つまらない笑いという事実がかえって自分から笑いを引き出す。本人はそれを面白いと考えていながら、周りはそうとは考えていないからだ。大抵その笑いは思いつきの二番煎じだ。ネタもどうせ身近なところからしか引っ張っていない。

だが一方で、周りがある種の笑いをつまらないと感じているという事実も面白い。つまらない笑いに何ら面白さを感じ得ないというその人のつまらなさが、壇上のそれと遜色ないことに吹き出しそうになる。要する自分のような人間が、自身のつまらなさを曝け出していることに気づかずにいるというのが面白いのである。

笑いというのは優勝したから面白いという権威や実績に基づくものではなく、皆が面白いから面白いことになっているというものでもなく、突発的に生まれたものが面白ければ、それだけでもう笑いになる。