人生

やっていきましょう

1252日目

対人面での不安は相手の正体が掴み切れないことへの混乱もあると思うが、そのほかにも自身と相手が対等ではないことへの無理や困難もある。常に自分が目下の人間で、相手をお膳立てしなければならない関係というのは相当なストレスがある。しかし自分はそうすることでしか他者と関われないと思い込んでいる。

例えば相手が自身のことを話すときに、こちらが凄いですね、流石ですねと言わなければならないという強迫がある。話をするときの主役は常に相手であり、自分のことは何も言うべきではない、そうした思い込みが自分の中では標準となっている。

こうした対人関係の歪みの根源については何度も言及してきた。自分は小さい頃から関わる人間のほとんどから相手の話ばかりを聞かされてきており、いざ自分の話をしようとすると大人にしても子供にしても、全く関心を持たれないということがほとんどだった。それが自分の中から自己効力感を失わせ、自分は脇役、主役は他人という関わり方でしか他人と交流できなくなった。

だから対等な会話というものが今だに理解できないでいる。数年前にこのことに対する不条理を自覚してからそうした無理によって維持されてきた関係を清算してきたが、未だにその無理が基本であるという見方から脱却できずにいる。

興味深い事例がある。ある時関わった知り合いはそれまでの人間とは全く真逆の聞き上手とも言うべき人間だった。その人と関わるようになってからは、自分は自分のことを延々と語り続ける人間になっていた。

この時自分は恐怖を感じた。自分が今まで不快に思っていた人間と同じ道を自分も歩んでいたのである。だから自分は自分のことばかりでなく、もっと相手の話を聞きたいと意思表示をするのだが、その人は結局自分のことをあまり語らないのである。おそらくこの人は聞き手に回ることにそれほどのストレスを感じていないのだろう。そういう人間もいる(それにしても、時たま無理をしているのではないかと不安に思うことがある)。

とはいえ、いじめられっ子がいじめっ子になるように、自分もまさに自分のことしか話さない人間になりかけているということは自覚しておくべきだろう。そうなりかけている時は次のことを考える必要がある。

まず他人というのは、それほど相手に対して興味を持っているわけではない。相手の努力、結果、実績というのは大変得難いものであったにせよ、それが自身のことでない以上、なるほどといった感想以上のものはあまり出て来ないのである(自分にそんなものを吹き飛ばすほどの魅力があれば別だが)。Twitterでよく自身の経験を交えてこうだったとつぶやくツイートがあるが、自分に全く悪意などなくとも「だから何だ」という率直な感想が頭に浮かんでくる。自分だけかもしれないが、今までの経験から行って、他人も似たようなものだと思う。

だから他人と関わる際には、自分の考えを吐き出し続けるのではなく共有可能な話題を持っていくべきだ。自分なんかはたまに自分の失敗談を陳述して笑いを取りにいくことなどがあるが、自分語りをするならば話題をこうした共有可能なものに加工してから口を開いたほうがいい。