人生

やっていきましょう

1257日目

そう少なくない人間が自分にできないことを平然とやってのける。この事実に自分はどうしようもない屈辱を感じる。

厳密にいえば、それらは自分にできることかもしれない。本当に自分には無理だと思える対象には黒い感情など抱かないものである。自分が屈辱を感じるのは、おそらく能力的には可能であっても、心理的障壁や価値観の歪みからその行動を取ることができないということへの苛立ち、悔しさである。

例えばごく簡単な一例がある。自分はこれまで人と関わることを恐れてきた。しかしただ怯えて逃げるだけの人生をそのまま肯定することもできなかった。自分は弱者の教義を必要とした。自分の場合、それは孤立する道を自ら選んでいくということだった。そうして自分は、互いの常識を照らし合わせて納得し合っている人間と決別し、はじめて自分を肯定する理由を得たのである。

この顛末が良いもので終わると信じられた時期はそう長くない。結論から言えば、この決別は自らに対する呪いとなり、他人というものに対する嫉妬、羨望、恐怖といった感情を増幅させることになった。事実を言えば、自分は本当に自ら孤立の道を望んでいたわけではなかった。慣れ合いができるという望みが絶たれたので仕方なく孤立した人間である。こうした人間の苦悩は中途半端に収まってしまうところであり、孤立を選んだ自身の決断も、孤立を強いた環境との不適応もすべてが自分にとって心を蝕む不安定な要素となる。

こうした類の歪みを自分はいくつか抱えている。歪みを歪みのまま維持し、それらを正当化する教義が自らの中で神格化されている。数年前、あるひとつの強大な柱が折れた。その時自分を肯定できる理由が消えた。今ではよくわかるが、本当に陳腐な思い込みだった。しかしそれを肯定し続けなければ、自分を生かすことができないというのもまた事実であった。

自分は最後の賭けで自身の一切の価値観を排し、再生を狙った。確かに自分はそれで正気に戻った。だがその結果、自分は何も欲することができなくなった。また、その空白感覚が薄れてくると、完全に排したと思われていた自身の価値観がフラッシュバックするようになった。自分にとって永遠に失われたはずの感情を平然と抱いている周りの人間が目に付くようになる。こうした人間に対する怒りや嫉妬に襲われることが何度かある。そしておそらく、今の状況が長く続けばこの傾向は悪化する。

明らかに彼らは悪くない。つまり彼らは手足を生まれたときから持っていて、そのために彼らにとって可能である人生を追い求めているにすぎない。あるいは突如として戦場に放り出されて人体を切除しなければならなかったり、PTSDにかからなかった人間の人生を送っているにすぎない。一方自分はこうした負の例の一部であり、欠落した人間であり、現在の社会では適応が難しい人種の人間であるというだけである。

おそらく自分は心では理解できなくとも、頭をつかって無理をすれば彼らのようになれるのだろう。しかしその無理を自分に強いたとき、自分は壊れるという確信がある。なぜなら自分は一度、その無理のために自分の価値観を壊したからである。自分だって他の人のように息を吐くように思い付きをばらまき、人と慣れ合うことで容易に信頼を築けるというのは願望である。自分にはそんなことなどできはしない。無理をしてようやくできるかどうかという話である。

正気を失うのはそう遠くないかもしれない。しかしそれまでは次のことを意識しておく必要がある。自分は主観に支配されている、そして他者と比較しすぎている。自分は他人が自分の同類であると思い込んでいる。そして勝手に裏切られている。自分が見つめるべきはまず第一に自己であり、周りのことは余裕ができてはじめて見るものである。

また自分が憎しみや嫉妬に支配されている時、それは彼らの恵まれた自明さに対する無頓着さからではなく、単に自身の疲労・空腹・不眠に起因していることが多い。不安定な思考に陥ったときには十分な休息を取り、回復したのちに改めて自分の考えを問うてみるといい。