人生

やっていきましょう

1272日目

永遠に続くかと思われた平穏が突然破られることがある。数週間前にそれは突然訪れた。身近な人を亡くしたとか、友人から縁を切られたとか、犯罪を犯して捕まったということでもなく、まったく些細なことで自分の心のゆとり、すなわち諦めによって得られていた精神の安定が失われた。あれからしばらくして、自分の中で何かが変わった。

気づいたのは、自分は本当に無意味で自由な存在だということだった。つまり、自分という人間を規定するいかなる精神的束縛も実は存在せず、あるのは物理的な条件と、それに対応するいくつかの手段、その道筋であった。

自分はこれまでの人生のすべてにおいて、他人に悪く思われたら嫌だという恐怖が先行していた。自分が人と話せなくなり、感情表現ができなくなったのはそれが原因だった。しかしその他人というのは妄想であり、仮に存在したとしても条件によってはその人と対立することが可能であった。

自分は善人であろうとした。したがって周囲に配慮し、言葉遣いに気を付け、マナーを守り、約束を果たそうとした。人が不快に思うようなことをしないことを誓った。しかし最近になって、自分が善人である動機を失った。失ったというより、そもそも存在しないということに気が付いた。

自分が善人であることをやめると周囲の信頼と期待を裏切ることになる。それが嫌で自分は無理をして善人になろうとした。しかしその期待は初めから存在せず、自分が一方的に相手が期待してくれることを期待していたのである。

明らかな事実として、自分は他人にとってどうでもいい存在である。これは偏見でも感傷でもなく、自分という人間が存在することの前提である。このことが自身の自由さを自覚させる。いま自分がここに居るべき理由はない。自分が今すぐ自殺しようが、どこか遠くへ行こうが、誰も引き留める者はいない。

これは孤独だ。誰からも自分は愛されていないからだ。しかし確かに自由である。例えば一人のデブがいる。デブは「痩せていた人間の方が価値がある」という世間の風潮に圧力を感じる。しかしデブは、デブであるがゆえに自由なのである。なぜなら「痩せていた方が価値がある」と思い込んでいる人間は、自分の体形を維持するために必死にジムへ通い、食べ物を選び、生活習慣を正さなければならないからだ。その上周囲の視線を常に警戒しなければならない。デブだと思われたら終わりだからだ。

デブはどうか。豚のように好きなだけ食べて好きなだけ寝ていればいい。唯一周囲の目を気にしなければ、体形の信仰にある人間たちにできないことができる。この世にはラーメンや焼き肉やピザといった宝が山ほどあるが、彼らはそれを山ほど味わえる。

自分は「痩せていた人間の方が価値がある」という信仰を持った臆病者と同じである。結局のところ、社会の風潮に適応するために過度な無理をして自分の強みを自覚できず、強化もできなかった人間だ。自分が先日感じた変化は、適応によって自分が救われるという期待をほとんど失ったことであるかもしれない。

なぜ自分は世間の風潮に適応しなければならなかったのか。それは自分が一人では生きていけないと思っていたからだろう。自分の価値観が異質だということは前々から知っていたが、その異質さをもって一人で生きることは難しい。自分は弱い人間だった。だから自分を大きく見せようと、誰かの権威の肩を借りようとしていた。つまり、自分は社会という共同体のメンバーであるということが自分に自尊心を与えると思い込んでいた。

しかし自分ははじめから社会という共同体に属していなかったのである。制度における住人ではあるが、メンバーとしての自覚を社会は与えなかった。これは学校のクラスでも、部活動でも、ゲームのコミュニティでも、あらゆるところでそうだといえる。

自分の諦めの平穏が破られたのは、この所属の自覚が失われたことによる。自分が未だに社会の側の人間だと思えていたずっと昔の心の支えが消えた。その支えは自分が人間だと思えていた頃の感情とその記憶だった。2018年に挫折をしてなお、自分はまだ人間であるという可能性を捨てきれずにいたが、これで本当に消えた。

自分はいま、本当に自殺をしても構わないのである。しかし不思議なことに、自分は自殺をしたいという気分にはならなかった。自殺という前提は既に自分の中から消えていた。自分にあるのは強烈な飢え、何か新しいことをしなければならないという願望である。