人生

やっていきましょう

他人の不完全さ、というものが確かに存在する。誤解をしたり、無知であったり、必ずしも論理的ではない。しかし自分はそういった人間であるという「シグナル」がなければ見分けられない人間である。無知なのに断言していたり、分かったような口をきいていたら、自分はそれが不完全だと容易に見抜くことができない。

結局自分は立場とか権威というシグナルからなんとなくそれが正しそうだとしか思えないほど知能が低い。他者に対する不安や恐怖が、自分にとっては絶対的な権威であり、他人の言うことは何を聞いても正しそうに聴こえてくる。

しかしそれではダメだ。シグナルではなくそれが信用に足る根拠のあるものかどうかで判断しなければならない。

自分の見方は相当歪んでいるからあまり自覚がないが、世の中には自分が思っている以上に破綻した人間が存在している。その破綻は、必ずしもわかりやすい形で自分の目の前に現れてくるわけではない。偉い人間でも、能力のある人間でも、すべてが正しいというわけではない。質は違えど何かを誤ることはある。

破綻に対して自分の見方に自信を持っても良いと思う。自分は自分の不完全さから、自分の下す評価が信用できないと考えすぎている。しかしそれゆえに自分もまた、ロジカルな判断、冷静な分析が障害され、思い込みや偏見で物事を捉えていることに気づいていない。

自分はどうしようもないバカだと思うが、他人の意見に遭遇したら、その理解がどのような状態にあるかを自分なりに言葉にしてから納得すべきだと思う。例えば相手が何か専門的なことを言っていて自分が理解出来なかったら、何か凄そうなことを言っているから正しそうと思うのではなく、次のように考えるべきだろう。自分は彼の主張のこの部分とこの部分が理解できない。それは自分の知識不足によるもので、場合によっては言葉の意味自体や背景を調べる必要がある。この部分は理解でき、更にその上この部分は共感できる。

自分の対象に対する理解の状態を言葉に置き換えてみることは、理解についての信頼におけるひとつの指標となると思う。無論それは自分で完結せよという意味ではなく、何が分かり何が分からないかを整理した上で、無理解をピンポイントに穴埋めしていくということである。もしそれで他人がおかしいと判断できるのであれば、自分は他人をおかしいと思って良いと思う。その際どうした根拠でおかしいと思うのかを説明できる必要がある。