人生

やっていきましょう

自分はお笑い芸人を遠い存在だと考えているが、実際のところまったく同じことに取り組んでいる。毎日ゲームのネタを推敲しそれが笑えるかどうかを考え、笑えなければ捨て笑えたものだけを形として作品に残す。

だから彼らには親近感を覚えて当然なのだが、実際のところ彼らを遠い存在のように感じている。同様に、ある種の漫画やドラマのコメディにも遠いものを感じる。

笑いには種類があり、自分のツボに入るものとそうでないものがある。たまたま彼らの笑いがそうではなく、別種の笑いがそうだという話でしかない。しかしその違いをうまく言語に落とし込めていない。

例えばツッコミというものがある。漫才でボケが常識外れなことを言うと、ツッコミがそれはおかしいだろうという旨の横やりを勢いよくかます。それがもっともな話なので笑ってしまう。漫画でもそうしたツッコミ芸が映えるものを見たことがある。

しかし自分はその種の笑いをあまり得意としていない。ツッコミが言葉として明言化されることで、それは自分の解釈というよりは模範例に対しての追随でしかなくなる。ツッコミ役の存在が一般常識の代弁者、解釈の正誤を定める権威となり、笑いどころを提示するガイドとなる。つまらなくはない。しかしどこか違和感がある。

むしろ自分はツッコミの不在によって生まれる笑いを好む。あるボケをかます人間がいる。その人間はツッコミの存在にかかわらずボケた狂言を繰り返す。しかしその人間がボケだと指摘する人間はどこにもいない。彼は狂人なのか?我々と同じ側の人間なのか?わざとやっているのか?本当に正気でないのか?彼を笑えるという自分の感覚は正しいのか?そもそも笑っている私は正気なのか?こうした緊張状態の中で受け手が試される笑いというのは面白い。ホラーと笑いは似ていると指摘した人間がいたが、その通りだと思う。

あるいはボケに対するツッコミが的外れである笑いも面白い。このツッコミの無自覚な常識感覚がまったくのトンチンカンであったり、あるいはある種の偏った思想に裏打ちされていることがうっすらと伝わるような笑いも面白い。うっすらと匂わせることが重要で、たとえ冷笑やブラックユーモアであっても作り手による意図の強制が見えると途端につまらなくなる。

要するに自分は、笑いの解釈の余地が自分に任されているような笑いを好み、方向づけられた笑いを苦手とする傾向にある。なぜか。それは方向付けられた笑いには、それを信頼するに足る強固な常識感覚が要求されるからである。常識から逸脱したボケは、その常識が通用するコミュニティに対する信頼が強くなければ納得の笑いとしてうまく消化できない。

自分がツッコミに抱いている違和感は以前見た新興宗教の演劇作品に抱いたものと似ている。彼らの演劇は端から見ればそれほど面白くもないが、彼らの演劇に爆笑している人間が大勢がいた。なぜか。それは彼らの演劇が宗教の教義とその正統性に裏付けられた強固な常識感覚に基づいて行われていたからである。

例えば彼らの演劇では敵対勢力の指導者を滑稽な姿で茶化し、教義に反する行いをした人間を馬鹿にしていた。彼らにとってそれらの逸脱者はボケの役割を果たしていた。それに対して登場人物たちは、それはおかしいだろう、私たちの先生はこんな連中とは違ってちゃんとなさっているというツッコミ役を果たした。だからその宗教に属していた人間は、宗教の常識感覚から逸脱していたボケを心から笑い、ツッコミ役の存在によって安心を得ていたというわけである。

自分の目指す笑いは脆弱な常識感覚に裏付けられた不安定なものだ。だから自分は常に自分の笑いが面白いのか自問しなければならず、そのたびに心が不安定になって気がおかしくなる。誰かに自分の笑いは面白いのだと言ってもらいたいのだが、その安心を渇望する精神が、自分を前例ある笑いへと誘惑し、その妥協から中途半端で曖昧なつまらないものが生まれてしまう。

自分は面白さを生み出す基点となる常識に自信がない。それが不安で仕方がない。しかしともかく、そこから生まれる笑いには可能性があるということは確かである。事実、不安定から生まれた笑いにはある種のシュールさがある。