人生

やっていきましょう

数年ぶりにゲームの掲示板を見た。相変わらず身勝手な暴言に溢れていて何も変わっていなかった。面白半分で読みはじめたが、やはり気分が悪くなる。

自分の他者像はおそらくこうした掲示板の中から形成された。常に相手の弱点を掘り出して人格否定をする。お互いの間で合意や納得が得られることはなく、話はいつも誤解や曲解に終わる。自分は人とあまり関わらない人間だったので、他人は皆こんな人間ばかりだと思ってしまった。

その時から自分の人生は狂い始めた。自分は常に周囲の目に晒されている、彼らは自分の粗を探している。事あるごとに常に自分を罵倒しようとする。そうした妄想が自分の中で定着した。

敵意と悪意が渦巻く環境で自分が生きていくためには、自分は合理的な人間にならなければならなかった。理屈の通らない人間は真っ先に叩かれるので非合理的な言動は謹んだ。言葉に矛盾が生じないように言動を一貫させる必要もあった。相手の言葉が理解できないといけないので、言葉を知らなければならなかった。

興味深いのは、自分が一度もその掲示板に参加しなかったことだ。自分から喧嘩を売ったわけでもなく、自分が指をさされるような真似をしたわけでもない。ただ自分がある時標的になるかもしれないという不安。それだけが自分の中にあった。

不安から逃れるために自分は強くならなければいけなかった。自分が標的になった時に自分の身を守り、自分が戦えるために。また自分は成功し続けなければならなかった。落伍者として嘲笑されないために。こうした焦りと不安に駆られてがむしゃらに生きてきたが、その過程で声が出せなくなった。他人を目の前にすると掲示板に渦巻く悪意がちらつき、絶対に批判されない完璧な模範回答を2.3秒のうちに答えなければならないという危機感が走る。そして思考がオーバーヒートを起こし、まったく何も考えられなくなる。

今でも他人を目の前にすると、敵意や悪意を感じずにはいられなくなる。どれも妄想だ。しかしそれが自分にとっての現実だった。この妄想は自分のゲームに色濃く反映されている。自分がキャラクター間の罵倒に変なこだわりを見せるのは、未だに当時の妄想に対する適応の強迫を克服できていない証拠である(ギャグに仕立てたという点で相対化を試みているとも言えるが)。

妄想は妄想である。何をするにもまずそのことをはっきりさせる必要がある。

可能性は現実の出来事ではない。当たり前のことかもしれないが極めて重要なことである。可能性は起こるかもしれないことであって、これから起こること、起きていること、起こったことではない。可能性は無限だが、事実はひとつに収束する。他者の悪意が自分に向くかもしれないという可能性があった。実際には何も起こらなかった。

可能性と現実を分けて考えることが自分の正気を取り戻す上で重要だ。自分が不安の中で振り回され続けているこの可能性というものは、それが少しでも起こりうるものならば、どれも皆自分にとっては等しく起こるかもしれないものである(自分には確率を考えられる知能がない)。だから本来なら到底起こらないようなこと、例えば宝くじを当てたら賞金目当てに誰かが自分を襲うかもしれないと考えて、勝手に不安になったりする。

これは非常に危険な兆候だろう。本来結びつかない概念を可能性の名のもとに無理矢理繋げようとしているからだ。きっとこのまま突き進んだ人間が正気を失うのだろう。

際限なく可能性に思い巡らすべきではない。可能性は無限にある。無限に湧いてくる情報に振り回されていたら思考が停止する。思考に余裕を持たせることが重要だ。

余裕のある思考についてこれまで考えてこなかったが、できるだけ脳に負荷をかけない情報量で思考することを努めた方がいい。自分が人と話せている時、いずれも自分の思考を制御下に置いている感覚がある。これを再現する必要がある。

可能性は起こり得る出来事であれば何にでも結びつく。自分の性格上何事も悪い方向に考えがちなので、自然と雲行きの悪い出来事が頭の中に集まってくる。これを断つ。そうすれば自分ももっと人前で話ができるようになるかもしれない。