人生

やっていきましょう

自分が昔好きだったことの多くが今では嫌いになっている。例えば絵を描くこと、小説を書くこと、音楽を作ること。ブログを書くこと。自分がかつて好んで属していたサークル活動も今では思い出したくない。

しかし今でも好きなものがある。例えばかつて好きだったゲームは今でも良いゲームだと思う。tf2は長年の関心の中心にある。昔読んだ本は今でも好ましい。小さい頃に食べたお菓子を今でも食べる。

この違いは何か。それはおそらく自分の負の記憶を想起させるか否かということに由来するが、大別すると2つの点に集約される。

ひとつは自分の感情を捻じ曲げて無理矢理好意を抱こうとして、それに挫折したもの。例えば絵や小説は元々自分がそこまでやりたいものではなかった。自分が何者か分からず、何ができるか分からない時、自分の過去を発掘して再び現在に呼び戻そう、これを自分のアイデンティティにしようと思い立って始めたものである。当時は誤魔化していたが、自分には描きたいテーマや作りたいものがあるわけではなく、ただ他人の評価が欲しいと思っていたのであり、そのため薄っぺらい作品ばかりが生まれ段々と耐えきれなくなり、ついにはそれらを完全に否定し投げ捨てた。

そもそも知り合いに誘われてやったことだが、知り合いは創作が好きでたまらない人間であり、自分はそうではなかった。当時は他人に合わせることしか出来なかったが今は違う。自分は自分の本心の伴わないことを無理に偽ることはもうしないと決めた。

もうひとつは、今の自分が否定したものを当時の自分が肯定しているもの。例えば自分は昔、自分の絵の下手さを肯定していた。そこに宿る絵の雑さに自分が表れていると思っていたからだ。しかしその下手さは今では違和感でしかない。全体の雑さが、そこに宿るはずだった自分の個性を潰してしまっているからだ。

小説や音楽でも似たようなことがある。何となく作ったものがいいと思い込もうとしているが、実際には才能の欠如と怠惰を誤魔化しているにすぎない。そこから一歩先を進んで自分の表現を追求すればいいのだが、そこまでやる気力がない。

そうした自分の事情が全部分かっていると、形として残された当時の創作がいかに酷いものであるかが分かる。本当は思い出したくもない。しかし作品は当時のまま、当時の感情を残したまま、自分に向けて偉そうに存在をアピールしてくる。それが苦痛でたまらない。

ゲーム制作は唯一自分の中でこの2つを乗り越えているものであると思う。自分がやると決めて始めたものであり、表現の試行錯誤に多くの時間を費やしてきた。その間、自分は無数の表現をふるいにかけ、作品の表現はその厳しい選別に生き残ったものしかない。7年前の表現はあまりに稚拙だったが、今ではすべて修正され少なくとも3年以内に作ったセリフにはほとんど違和感がない。

したがって安定している。この感覚を他の創作に活かすことができれば、おそらく過去のトラウマに振り回されぜきっとうまくいく表現ができるだろう。そういえば他の創作でここまで試行錯誤を費やしたということがなかった。結局は経験不足という話に行き着く。