人生

やっていきましょう

MMOでプレイヤーイベントがあった。大勢で街に集まり露店を出すという試みだった。広報の甲斐あって当日は大賑わいだった。自分も今日そこで出店するつもりだった。面白い露店には賞金が贈られるというので、自分は今までに無い新しい試みを行った。

自分の出した露店は【キャラクター名】を売るというものだった。”神”だとか"ニート"だとか、普通の人間からすれば既に取られているような名前を販売すれば面白いと思った。事前に収集していたコレクションからいくつかピックアップして売ろうと考えていた。

結論から言えば1つも売れなかった。それどころかひとつも反応がなく見向きもされなかった。これに関してはいくつか思い当たりがある。宣伝が下手で集客がうまくいかなかった。またリストを提示しながら販売するということができなかった。キャラクターも初期装備のキャラで参加して怪しさ満点で顔を出せば目立つだろうと考えていたが、それが逆に人を寄せ付けなかった。

だが本当にそれだけかと思う。そもそも多くのプレイヤーにとって、キャラクターの名前など価値はないのではないか。これはいくつかの知り合いに聞いて何となくそう思ったのである。自分がキャラクター名を売るというビジネスの話をしたときにすべての人間が微妙な反応を示した。

このゲームは長年サービスが続いていてサブキャラを量産することが奨励されていて、プレイヤーはキャラクター名を明記する機会が多いはずだ。今回の名前販売は、もちろんネタではあるけれども、ある程度の需要に応えたものになっているはずだった。しかしその目論見が完全に外れ自分の存在が無かったことにされていた。自分は客のニーズに応えられなかった。

今回の一件はほんの些細なことだったが、自分にとっては色々考えるところがあった。端的に言えば、自分の中のある偏りが自覚させられた。それは名前に対する自身の権威主義的傾向である。

名前というものを考えるとき、自分は価値ある名前をつけようとする。それらの名前は大抵、名前として格式高いもの、つまりその名を言えば世間に通ずるような名前である。しかし名前とはそういうものなのか。多くの人間は言葉と言葉を合体させながらオーソライズされていない名前をつける。確かにその名前には何の保証もない。しかしその人間の生き方が、知り合いとの交流が、その名の価値を保証する。日常生活では呼称されない奇怪な名が彼らの内で交わされることによって意味のあるものになってくる。

翻って自分の名前はどうか。オタクだとか神だとか卍だとか、たしかにある種の関心の対象にはなるだろう。しかしその名前がすべてというわけではない。自分のような人間関係の冷えた人間がこの名を自称する様を想像してほしい。その名の価値は誰のものなのか?

この傾向を深堀すると見たくない現実が見えてくる。つまりなぜ自分が過剰に名の権威を欲するのか。それは自分という人間があまりに空虚な存在だからである。自分を否定し続けてきて自分の価値をほとんど信じられない。だから借り物の名前を借りて自分の存在価値を箔付けしようとするのである。しかしそれは学歴や職歴で自分を埋め合わせようとする虚しい試みと同一である。形式だけで中身はからっぽ、それが自分である。

自己の不在を埋め合わせようとした自分にとって、不動の価値を有した権威が輝かしく見えるのも無理はない。自分がそうなることでこれまでの人生を精算できると考えるのも仕方のないことかもしれない。しかしそれはどこまでいっても借り物であり、自分のものではないのである。

世間がその名に対する異様な執着を持たないのは、名前が何であれ自分が良いと思ったものは良いと漠然的に信じているからである。彼らには自身の確かな価値観があるからこそわざわざ名前を買うという必要性を持たないのではないか。あるいはそもそも、こちら側の選んだ名前がその権威によって相手を拒絶するものであるということが、彼らの求めるような、仲間内での名前の浸透しやすさという動機の対極に位置するものだったのではないか。

自分の笑いのセンスがおかしいのかもしれない。自分が神や仏であると名乗ることを面白がるのは、そもそも自己というものがまったくの無価値であることが前提にあり、にもかかわらず絶対的価値の権化である神を自称するところにギャップがあるからだ。しかしそんなことは自己で満たされた他者が知るはずもなく、端から見ればよくわからない人間が自分を神を呼んでいてかって不安を感じさせるばかりである。

あれこれ考えていると、ふと自分のハンドルネームに目がとまる。どこにもない名前。しかしその名前をつけた小学生の時から今に至るまでの人生が、その名に凝縮されている。自分は実名が嫌いだった。その名がどうというのではなく、その名を背負った人間があまりに空虚で、あまりに環境に振り回されていた存在であるということを想像してしまうからである。その名を背負った男はいったい何を成し遂げたのか?その大半を自身の無価値の証明に費やしていただけである。

しかしこのネットのハンドルネームを背負った男は、自分の人生の大半を他者の眷属としてではなく、自身の主としてその大半を内面で過ごしてきた。自分という人間が自分であると言えるのはまさにこの名を持つ時だけだった。だから実名よりもこちらの方が自分の本名とさえ思ってしまう。

それが分かっているから名前を売ることの空虚はよく理解している。結局自分は何者にもなれないまま不安定な自己を抱えた中学生の頃の自分から何も変わっていないのである。世間を見渡せば同級生は皆一人前の大人となっていて、自分の果たすべき役割を正面から引き受けている。自分が彼らのようになれないのは、彼らにあって自分にない、この世に対する信頼が欠落しているからだろうか。