人生

やっていきましょう

昨日のことについて性懲りもなくまだ考えていた。それで思ったのだが、自分は本当の意味で自分をかけて勝負をしていなかったのではないか。絶対受けると思った反面どこか守りに入っていて、積極的になることができなかった。結局のところ自分自身の面白さを信じ切れなかったのである。

自分のことを言い表すならば、舞台に立った芸人が不安からオドオドしたようなパフォーマンスしかできず、笑いの内容以上にその曖昧な様子から微妙な印象を与えるようなものである。守りに入った笑いというのは大抵微妙なものであり、振り返ると自分もまた似たような状態にあった。

なぜそうなったのかというと、自分がいかに面白いことをしようとも、現実の自分はその振る舞いに値しない人間だと固く思い込んでいたからだ。それに自分をかけて勝負をするということをここ数年やってこなかったことも原因だった。自分の人生は人に歓迎されないことが多く、その失敗の経験が自分をそう思い込ませた。そしてそれを自分は克服することができなかった。

今回の自分の試みには誰も支持者がいなかった。完全に自分ひとりの勝負だった。いや、そもそも自分はもとから一人だった。今までは慣れ合いの中で誤魔化していたが、自分は自分の人柄ゆえに人を惹きつけているわけではなく、周りの愛想に甘えているだけだった。そのことが今回の一件でようやくわかった。

こうした状況に対して心が折れそうになった。しかし今回の一件は自分にとって良い経験になったのではないかと思う。もし自分が怯えて人前に出て勝負をしなかったら、あるいは周りが哀れみをもって自分に対して心にもない賛辞を送っていたら、自分は未だに慣れ合いによって誤魔化されていただろう。しかし自分は今回勇気をもって外に出た。そして失敗した。公衆は自分の企てに対して見向きもしないという反応を示してくれた。それが自分と世界の現実的かつ具体的な位置づけであるということを教えてくれたのだった。

確かに自分が下手で課題も多くあった。しかしともかく挑戦したということは自分で否定しなくても良いのではないか。自分はこの失敗を傷と捉え、二度と表舞台に立たないと一度は思いかけた。しかしそうやって傷つくたびに逃げていたら、自分は本当につまらない人間になってしまうような気がする。なぜならそれは他人の価値観に振り回されて自分を修正するような軟弱さを認めるようなものだからだ。

今回思ったのは今後は中途半端なことはやめようということだ。やると決めたら徹底的にやる。不安に流され微妙なことをやるくらいなら初めからやらない。もしやるなら失敗しても落ち込まない。課題を見つけ次の挑戦に生かすことだけを考える。

こうした態度が自分の中にある種の勇気をもたらしていることに気づいた。こんな理想は本心ではないが、自分はそう思うのだと思っていたら自然とそうする方がいいような気がしてきた。失敗が恥なのではなく、そこから学ばないことが恥である。

今回は失敗だったが、ここから色々と学んで次はもっと面白い企画を考えたい。