人生

やっていきましょう

自分といえるものが定まっている人間に恐怖を感じる。自分はこんな人間であると説明でき、何を望み、何をしたいかを何の疑念も無しに語れる人間が恐ろしい。そこに疑念を抱かずに済んだ運と幸福に無自覚である人間の、自分の見ている世界がすべてだと思える人間の、この素朴さが恐ろしい。

自分は、自分がこういう人間であると言葉に出すことができない。言おうとすると言葉が出なくなる。自分が自分というものに納得できた生き方をしてこなかったから、自分がこういう人間であると率直に言うことができない。それは自分が望んだことではない。自分はアイデンティティを否定する生き方をしてきた。その否定は他人の都合に合わせる意図で行ってきたが、そのために自分は自分といえるものが何もない。

なぜ多くの人間が正気を失わないのか理解ができない。価値の根底など無いというのが自分の中での常識だが、多くの人間は価値の根底の不在に意識を向けることがない。みんながそうだったから、これまでの経験で不都合がなかったから、当たり前のことだから、自分の支持する価値観が、感情が、言葉が、疑念も無しに自然と出てくる。

こうしたことを人前で言うと異常者扱いされるか、自分の価値観に染め上げようとする人間の餌食にされる。だからもうこんな話を人前で言うことはなくなった。そもそも相手だって、こんなことを言われてどうしたらいいかわからないはずだ。そう思わずに済んで何ら不都合などないのだし、自分にその意図がなくとも相手の価値観に対する否定的なニュアンスを嗅ぎ取って不快に感じるに違いない。

自分が社会を恐ろしいと感じるのは、自分を商品として売り出さなければならないということだ。自分にはこんな利点があり、自分が存在することで誰かの助けになる。そういうことにしなければ自分に存在価値はない。しかし自分は誰かを助けたいと思ったことがない。誰かに貢献したいと思ったこともない。誰かに利する存在であろうと望んだこともない。なぜなら自分は常によそ者であり、部外者であり、そこに存在しない人間だったからだ。

それでも昔はどうにか社会の価値観を内面化しようと努力してきた。しかし今ではもう無理だと完全に諦めている。自分が社会の人間と同化すればするほど自分は自分でなくなり、同化した一部の自分と、それを否定する自分とで引き裂かれる。自我の拡散を招いたのは結局こういう無理が原因だったかもしれない。はじめから慣れ合おうなどとせずに、唾でも吐いていればまだ良かっただろう。

ところで自分は金というものに対してどこか畏敬の念を抱いている。金は自分がどれほどの異常者であっても、持っていれば自分を正当な人間であると評価してくれる。そして多くの人間がその特権によって自己の正当性を認めることができている。こうした視点であまり金というものを見たことがなかった。自分の実存的な不安もある程度金で解決できたのだろうか。