人生

やっていきましょう

自分と周りの関係について。自分は他者に振り回されることがよくある。自分が無理をして他人に合わせる。他人はそれに気づいていない。無理は時が経つにつれ負の感情へと変わる。我慢を繰り返すうちにその感情が払拭できなくなる。

自分はこれまでの経験から、それが自分の独りよがりの感情であるということを俯瞰できるようになっている。ただそうやって自分と切り離すことで解決したと思うべきではない。この負の感情は自身への警告であると捉えるべきである。すなわちそこに無理が存在し、その無理に限界が来ているということである。

こうした感情について状況を正しく認識しようとすることは一定の効果がある。感情によって増幅された理不尽感をある程度緩和するからだろうか。しかしやはりそれ以上に、自分の内面のケアというものを自覚的に行う必要がある。そんなものは不要だと昔の自分は強がっていたが、その結果が全方位に対する慢性的かつ漠然とした憎しみである。

自分の内面のケアというのは自分の感情に寄り添った対処をしようという試みである。自分は無理をしてきたということをまずは受け入れる。そしてその努力をひとまずは肯定する。これは相手に向かって口外することではない。なぜならそれは自身の内面的な事実であって他者との関係における事実ではないからだ。

これは難しい話だが、相手とのかかわりにおける自他の内面的印象を排した事実の上では、双方が双方の程度をもって人間関係を維持しようと努めたということだけしか残らない。したがってそこに互いの内面的な印象、自分は散々無理をしてきただとか苦しんできただとかいうものをぶつけることは適当ではない。相手からすればこちらの内面的事実は見えておらず、目に見える事実、もしくは自身の内面的事実を指摘することになるだろうからだ。

こちらが無理をしてきたと言えば、向こうだって無理や理不尽に耐えてきたと返してくるのは当然である。もしくはそれがこちらの主観であり、実際はそれほど無理ではないという事実を明らかにしてくるかもしれない。いずれにせよ、自分の内面的事実を指摘して相手が「ハッとする」ような展開というのは現実ではそうそう起こりえない。

気が済むまでやればいいかもしれない。しかし結局はお互いがお互いの内面的な事実をぶつけ合って喧嘩になるか、内面的事実と外面的事実をすり替えたり誤解することになって、互いに敵と認識し合って終わるにちがいない。それに、無理を安易な喧嘩で晴らしたところで、自分の先走った無理という傾向を改善しなければまた似たような問題で爆発することになる。

そこで自分は内面のケアということをふと思い至ったのである。繰り返すが、内面のケアは自分の内面的な事実を受け入れるということである。自分が無理をしてきただとか、傷ついてきたという主観を、実際はどうであったかは別としてひとまずは受け入れる。それは事実の正しい投影ではないかもしれないが、そのように受け取ったという事実は確かにある。それを否定することは、自分の内面を抑圧することに他ならない。

よくネットでは主婦が事実を誇張して自分を被害者のように描く漫画が流行する。その荒唐無稽さが冷笑屋のやり玉にあがるが、自分個人としては半分笑えないものがある。なぜなら感情的に不安定になっている時は、ほんとうにそれくらい歪んで見えてしまうからである。自分はこれまでそうした内面的な歪みを「矯正」して、物事を正確に捉えることに励んできたが、それが結局自分の内面を抑圧することになり、何の解決にもならなっていないことが分かっている。

自分の中の内面的事実は他者に対する膨大な不安、他者に自分をコントロールされることへの不安、自分のことを常に誤解されることの不安といったものに満ちている。それらはすべて善良でなければならないという自身に課した鉄の掟に由来する。それらが他者に対する不必要な警戒を生み出し、自分を委縮させる。対人関係の経験不足がその傾向を加速させる。自分は自分を犠牲にしてでも善良でなければならない。ミスは許されない。

どう考えても滑稽な世界観だが、自分の内面にはこうした前提が根を張っている。それが馬鹿げているからこそ自分は頭で否定しようとした。しかしそれを少し変えてみてはどうかと思う。自分の内面にはこうした馬鹿げた抑圧の世界観があった。その中でもがいていた歴史があった。何であれそれは受け入れるべきではないか。

その上で無理はやめようという話になる。異邦(もちろん比喩だ)の人間として、普通の人間の前提感覚を内面的に共有できない人間として、対人関係を渡り歩くために身に着けた自分の唯一の武器がこの「無理」である。確かにこれはある程度成功した。無理がなければ狂人とみなされていた自分が、無理によって僅かな市民権を得た。しかしそれは結局自分を追い込むことになったことに自分は気づいているのか。

今になって思うが、無理を唯一の武器とすべきではなかった。時には離れるということも有力な武器のひとつになるだろうし、何なら他者とぶつかって戦う道を選んでもよかった(もちろん言葉の上での話だ)。我慢は複数ある選択肢のうちのひとつであるべきだ。重要なのはそれをいつでも選べるということだ。それしか選べないという状態は、自分の精神を悉く追い込んでいく。

たとえば人間関係のひとつにしても、多くの依存先を見つけることが大事だとよく言われる。それは自分が頼りたい人間がごくわずかに限られていた場合、その人間の都合に自分が振り回されることになるからだ。自分がそうと望んでいなくとも、気が付いたら依存してしまっている。そういう状況は自分にとっても相手にとっても健全ではない。

これは可能性の話ではない。実際に自分が選択できるかどうかという話である。嫌な人間と関わらなければならないとする。その人間と関わり続けなければならないという状況は精神を消耗する。その時自分にはその場を離れたり別の人間と関わったり様々な手段を取る可能性がある。だが実際にそれを選べなければ、それらは存在しないに等しい。

どうすればいいか。あらゆることについて言えることだが、実際にその選択肢を取らなくても良いという内面的余裕を生み出すことである。あるいはそんな選択肢を取らずに済む具体的な環境・手段を自ら構築する。具体的なケースは個々の場合によるが、何であれもしそうやって自分の行動可能範囲を広げることができれば、自分は無理をせずに済むのである。

自分の基礎は一貫している。コントロールできることにのみ焦点をあて、コントロールできないことに対しては(とりわけ創作的動機でもない限り)なにも考えない。自分はいまノミほどの範囲しか有していない。しかし自分の不安を取り払えば、実は既に多くの選択肢を有しているのである。自分はそれに気づいていないということを最近思うようになった。だからまずは無理をするしかないという世界観から脱却し、自分が快適に生きられる状態を作るところから始めたほうがいい。