人生

やっていきましょう

自分は中学生の頃から苦手な分野に挑戦するということに心血を注いできた。とにかく苦手であるということが自分の劣等感を刺激するので、自分が苦手な領域に敢えて踏み込んで克服しようとしていた。

今思えばそれらは必ずしも不可能なものではなかった。苦手であり自分の弱点ではあるけれども、人と話せないということに比べれば容易いことだった。この会話ができないという欠陥のせいで、自分の心の中の無力感は絶対的なものになっていた。この絶望に比べれば努力で改善可能な問題がいかに簡単に見えたことか。

自分はこの無力感ゆえに、必死になって何かを突破できるという妄信にすがっていたのかもしれない。この傾向は高校の時が一番ひどかった。自分の病的な傾向を俯瞰することができないまま、努力という唯一の存在理由を求めて無我夢中に走り回っていた。

人と話せないというのは自分の中では致命的な問題だった。それは能力的な問題であるというより他人の正体が分からないことに対する不安、他人を信頼できないという猜疑心が自分の正常な感覚を狂わせていた。感情が読めない、話題が共有できない、何が他人にとって不快な要素になるか分からない。下手な言葉が言えない。失敗できない。誰もが皆自分の言葉をつぶさに観察して自分の粗を探そうとしている。そう考えて恐れるあまり、他人を前にすると自分は頭が真っ白になるのだった。

この問題から自分はできるだけ目を背けようとした。どうにかこの傾向に触れないまま、最低限の人間らしい生活を送ろうとした。確かに学校という守られた空間の中ではうまくいっていた。しかし一人の大人、一人の責任ある人間として生きていかなければならなくなった時、自分のこの欠陥から目を背けられなくなった。後になって気づいたことだが、自分が意図して警戒していなくとも言葉がまったくでないのである。適切な言葉を探そうとして脳内を検索するがひとつもヒットしない。文字通り何も出て来ないのである。長年話してこなかったことによる弊害なのか、あるいは先天的に何等かの障害を持っているのかは定かではない。いずれにせよ、自分はこの欠陥を克服する術を持っていなかった。

自分の不幸は2つある。まず第一に人と話せないということ。長年の努力から最低限の言葉を交わすことはできるようにはなった。しかし他人と感情交流をするということがまったくできない。根本的に他人を信頼するということができない。それは自分の印象、他者とは自分の思考の粗を探して指摘しようとする存在であるという妄想に由来する。その存在を常に想定しているので、指摘される前に自分の方で回避しようとする。

ここで自分の頭の中で混乱が生じる。自分は何かを話そうとする。それ自体は簡単だ。しかしそれと同時に、自分の話そうとする内容を検証しようとする。その話題の根拠は正確か?話し言葉は適切か?人に指摘される前に先んじて解決しようとする。ほとんど同時にそれが起こる。するとどうなるか。話そうとしている自分と自己批判を試みる自分とが一度に自分の主導権を巡って争い始める。この混乱が生じてまもなく、どちらが本当の自分(であるべき)か分からなくなる。そして頭が真っ白になる。このおかげで自分の人生は最悪のものとなった。

もうひとつの不幸は、自分の存在が倒錯したものになったということ。例えば自分は先に述べた通り、人と話せないという欠陥以外のところで自身の無力感を克服しようとした。とにかく苦手なものだろうが何だろうが、自分の尊厳に繋がるものであれば粘り強く取り組んだ。それらはすべて自身の欠陥を補うという動機から発せられていた。いつしか自分の周りには自分の苦手なものばかりが集まっていた。

これに耐え切れなくなったのが2018年の挫折である。この時はじめて自分は事の重大さに気づいた。自分の身の回りには、どこを見渡しても自分が毛嫌いしているものしか存在しない。克服しようとして失敗した無数の残骸が、自分という人間を形作ってきた証である。自分には何かを支持する価値観というものが存在しない。自分は自分でないものに囲まれて生きてきたのであり、そこに自分と呼べるものは何ひとつない。この倒錯を自分は異邦人として考えなければならなくなった。

いずれの不幸も自己の不在という問題が焦点となるだろう。いまの社会はその構成員が自分というものを当然有しているものとして設計されているように思う。自分は「結局あなたは何がしたいのか」という言葉に隠された欺瞞に苛立ちを覚える。自己というものが当然あるものであり、それがない人間はおかしいと判断されているかのようだ。しかしその言い分は十分に理解している。この時代に求められる人格像とは、自分と言う人間を疑い続けた人間ではなく、信じ続けた人間なのだ。

ところで自分のような自我が崩壊した人間は、死んだ自意識と生きようとする本能との間の矛盾を自覚することになる。そこで自分の意識の方に身体を合わせるために自殺を企画する人間もいるようだが、その気すら起こらないという点で自分はもう末期状態なのだと思う。繰り返し言っているが、死が救済などと言える人間はそこに自身の理想を仮託できるだけの自己像を有しているからそう思えるのである。自分にはそれがない。自分の手元にあるのは、自分が苦手だと思っていたもの。自分の嫌っていたもの。すなわちそれは他者そのものであり、自分は他者以外の何者でもない。

こうした自己不在の倒錯状態の中で自分というものを見出そうとしたというのが自分の人生であったように思う。自分がどれほどの文章を費やしても、自分の内面の劣等感を救うにはついに至らなかった。自分は相変わらず話すことができないし、自分の自我は発達に失敗している。そして同時に弱者の怨恨と戦う人生だった。人と話せる人間の余裕に対して自分は嫉妬した。信頼している相手でも、そっちの側かと思うと落胆した。だがその悔しさや憎しみに感情を支配されまいと戦ってきた。結局それも他人のためであるという点で自分は奴隷でしかないのだが、この公共感覚によって自分は狂わずに済んでいるかもしれないと考えた。

他人のことを考えるのはやめよう。自分の想定する他人ほど空虚なものはない。自分は他者と自分が大体一致していればよかったと思った。しかし実際は、自分とはまったく異なる前提で生きている。自分が悩んでいること、自分が苦しんでいることは、彼らと同じものではない。だから自分は、自分自身で自分と向き合わなければならない。